3298.『ローマ人の物語 最後の努力』読了/本当に幸せだから/情報と人間とか、生きる意味とか(09/10 15:41)


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意味といえば話は変わるが、最近野口裕之の身体教育研究所に行ったり、桜井章一の雀鬼塾にいったりする人が多いのは、それだけ人生に意味を求めている人が現代も多いんだなと思う。昔は宗教だったり、あるいは作家だったりしたのだけど、最近はそういう観念的な、頭で考える系ではなくて、もっと身体性が感じられる方に人生の意味を求めるようになっているのだと思う。伝統的な職人芸に弟子入りする人たちが求めているのも、そういう部分なのではないかなあという気がする。農業に参入する人たちもそういう部分があるのだろう。

情報を求める系の人たちがマネーゲームの方に行き、身体性を求める系の人たちがそういうものを求めてそういうところに出入りするようになるのが、最近の傾向なのではないか。

人生の意味というのは、昔はもっと観念的にとらえられていたと思うけれども、それは逆に、自分の身体というものがしっかりとあったからなのかもしれない。今の人は身体がないのでそれを回復することの彼方に人生の意味を感じているのではないかという気がする。自分が野口整体に行くのもある意味そういうことだろう。

情報を求める系の人たちは、昔は科学のほうに行ったのではないか。それは自らの身体性の感じ取るものを情報に変換する理系の学問が気持ちにフィットしていたからだと思う。今の人たちは身体がないから、情報が情報のみで回転するマネーゲームやITの方がフィットするのだろう。

しかしまあ、私が野口整体に行くのは、人生の意味を感じたいから、というのとは少し違うな。しかし、人が生きるということはどういうことなんだろう、ということがわかる、感じ取れるのではないかとは思う。人が生きるということを常に感じ取れる感性を持つことはおそらく、人生の意味を適切に感じ取るのにプラスになる、あるいは必要不可欠のことではないかと思う。

私はどうしても意識の世界に沈潜してしまいがちで、現実の世界に帰ってくるのが億劫なことが多いのだけど、やはり往復運動が必要なんだと思う。意識の世界にいるのは現実の世界にふたたび出て行くためで、現実の世界にいてさまざまなことに向き合っているうちに意識の世界でまたやるべきことが出てくる、という運動。常に自分の立ち位置はそういう意味で動いていて、固定されていない。情報を発するときには、そういうことをきちんと踏まえて表明して、決して原則に基づくだけの死んだ情報を発しているのではないのだということ、逆に言えば生きた現実から出てくる情報は時により矛盾するものでもあるのだということをはっきりさせておかなければならないと思う。矛盾というよりは変化であり、変化であるというよりは進歩であり、それは生きているということであるということをしっかり示せるような、そういう姿勢を見せなければならないのだと思う。



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