3298.『ローマ人の物語 最後の努力』読了/本当に幸せだから/情報と人間とか、生きる意味とか(09/10 15:41)


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昨夜はよく寝られた。いつもはねる前に何か読みたいという気持ちが強く、なんだか残っている興奮をクールダウンするのに手間がかかるのだが、昨夜はそういうのがなく早く寝たいという気持ちになっていて、けっこう自然に深く眠れた。12時前に寝て6時前に目が覚めているから睡眠時間がそう長いわけではないけど、寝たりないという感じがなかったから自然に寝るのはいいことなんだなと思う。「やりのこしたことがある」感じなしで寝て、「やりのこしたことがある」感じが次の日に引き継がれないで起床するということがよい睡眠なのだと思った。

『ピアノの森』についてぼおっと考えると、子ども時代のカイ、日本で自活しているときのカイに比べて、ワルシャワに来てからのカイがなんだかいい子過ぎるなという印象が最近あったのだけど、それはカイが今、本当に幸せだからなんだと思った。光生が脱線気味だったり雨宮が苛々したりアン兄弟がナンパしたりしているのに比べると、カイはただピアノに真摯に向かっている。雨宮に言った、「俺たち、ここまで来られて本当によかったな」という言葉が今のカイの心境を素直に表しているんだろうな。

今日はモーニングとビックコミックの発売日なので、電気代を払ったり職場の不燃物を処理したりするついでにコンビニに出かけて買ってきて、すでに読んだ。今週は「ピアノの森」が掲載されていて、パンウェイの過去が明らかになる。ピアノとの出会い、そして阿字野のピアノとの出会い。明らかに天賦の才だが、おそるべき地獄にいたパンウェイにとって阿字野のピアノの存在は…ネタバレなのでそれはここまでに。しかしよくここまで深いストーリーが書けるなあ。そしてこの絵。阿字野に認められたい雨宮、阿字野に育てられたカイ、阿字野に福音を見たパンウェイ。そしてパンウェイのピアノを目を閉じて聞く阿字野自身は。

…次号を待て。

……カッコいい。

そのほかいろいろ面白い。「ジャイキリ」はなるほどこういう展開かという感じ。「太陽の黙示録」もなかなか興味深い展開になってきた。「誰寝」は選挙ネタ。シモヤナギさんが笑えるが、こういうネタはまあどう扱っても普通に面白いな。昨日のスーパージャンプは「王様の仕立て屋」はわりと面白かったが「バーテンダー」が救済されているのに涙を飲んだのだが、モーニングとビックコミックは特段の休載がなく、大体堪能した。

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人間は情報でない、生きるシステムであり、常に変化するが、言葉は情報であり、不変のもので、人間が情報に向かって疎外されている現象が個性偏重思想なのだ、という『バカの壁』に述べられている養老猛のテーゼは非常にわかりやすく、応用もきくし、納得も行く。

結局今まで一番わかってなかったのは、言葉や情報が普遍のもの、つまりもう変化しないもの、変化しないということはすなわち死んだもの、生命のないものだ、ということだったのだと思う。それが生命力を持つのは、見るほうや読むほうの生命力を喚起することによってであるということ。人間と作品とはそこが根本的に違う。

変化のしないものだからこそ、人は作品を納得の行くまで仕上げなければいけないということだ。井伏鱒二みたいに書きあがった作品を何度も手直しして、全集を編むときに「山椒魚」の最後の場面をカットしたりするのにはたまげたが、(あれは私が中学生の頃だったかな、既に読んでいたから)あれもある意味誠実とはいえるし、迷惑ともいえる。情報のバージョンを増やすことによって情報が曖昧化し、読み取りの手間が増える。しかし、そのように書き換えたということ自体がまた情報でもあるのだから、より豊かにしたという見たかもできるんだよな。バリエーションがたくさんあってバージョンがたくさんあることは「研究者」にとっては面倒な面もあるだろうけど、本当はそういうバージョンがあるということ自体がいろいろなことを意味しているわけで、そこから読み取れるものは多い。

作者の真意に近いものはどれか、というのも実は結構難しい話で、作者の真意だって時によってうつろっていくだろうから。ショーペンハウエルみたいに一つの主著を一生書き直しつづける人だっているのだし、結局「真意を探る」というのもある意味「自分探し」みたいな、青い鳥はここにいました、みたいなものかもしれないと思う。これは実は、骨董の真贋などもそんなものかもしれないと思った。青山二郎が骨董の真贋はそう簡単に決められない、と言っていたことを白洲正子が書いていたが、科学的な意味での真贋は骨董屋の丁稚にでも決められる(らしい)が、それが本当に価値があるかどうかの判断は誰にでも出来ることではない、ということなのだという。作者の真意、と科学的に判定できるものが出てきても、それよりももっと価値のある偽の(真意であるとは判定されなかった、という意味で)文章というのはありえるわけで、そのときにどちらをとるかというのはもう採用者の主体的な判断しかありえないことになる。つまりどちらに意味を見出すか、ということだ。


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