3297.養老猛『死の壁』読了(09/11 15:33)


今朝は寒かった。というか今でも寒い。9月11日といったら、まだ残暑が厳しいというのが通り相場だが、今朝は多分10度以下まで下がったのではないだろうか。布団だけでなく、毛布もかけて寝たのに、朝起きたときには手足が冷たい感じだった。

こういうときは身体のことを考えてしまう。腹の調子があまりよくないこともあって、起きるときから身体の中を観察していた。活元運動をしようと思ってもなかなか上手く力が抜けなかったりするが、こうして文章を書きながらだと身体が動く。身体でつかえているものと、意識でつかえているものが深く関係しているからなのだろう。

<画像>死の壁 (新潮新書)
養老 孟司
新潮社

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養老猛『死の壁』読了。これは何だろう、『バカの壁』に比べると問題提起的という感じはしない。死というものはこういうものだ、という養老の考え方を述べている、という本だと思う。だからどちらかというと養老の経験に基づくこともいろいろ述べられていて、ふうん、とかへえ、とかは思うけれども、そうだよなあ、と深く同意する、とは限らないことが結構多い。

「エリート」の問題が、死の問題と深くかかわっていること、つまりエリートがいろいろな意味での権力を行使することによって、常に人が死ぬ可能性がある、というのがエリートの存在の本質的な重さだ、ということは納得できた。自分の決断によって、政策の実行によって結果的に人を死に追い込むことがたとえば政治家や官僚にはないわけではないし、また軍人や医者ならもっと直接的な場面もあるだろう。エリート教育というのは、つまりそういう重さを引き受ける覚悟を持たせることなのだ、という指摘は全くその通りだと思った。

年代的に、戦争で負けたことによってすべてが信じられなくなり、確実なものを求めて日本人はものづくりに専念した、というのはちょっと実感が難しい。養老が4歳のときに父をなくし、それを乗り越えたのは30歳を超えてからだった、というのはそういうことってあるよなあと思うけれども、もちろん本人ではないのでそれ以上のことはわからない。そういう経験が死についての彼の考え方の基盤をなしているというのはそうなんだろうと思う。そういう方面からの彼の思想の補強のようなものは為されていて、養老の人間性に一歩近づけたかなという感じはするけれども、説の補強という点では搦め手は搦め手だろう。

私もそういうことはすぐ言ってしまうのだが、理解されたいと思ってそういうことを話しても、何を理解されたいかというと自分自身を理解されたいのであって自分がそういうことをいうことの客観的な妥当性みたいなものが保証されるわけではない。それより相手の立場を自分の位置に近づけて、ここに来るとこういうふうに見えるでしょう?といいたいわけだ。たしかに、屋根の上から町を見下ろして見えるものを、屋根の下にいる人に説明するよりは、上ってきてもらった方が理解されるだろうと思うのは当たり前なのだけど、みんなが上に上って来てくれるわけではない、ということはわかっていなければならない。ざっと読むだけで通り過ぎていく多くの人にここに面白いものがあるよと伝えるのは、そのやり方では不十分であることは仕方ない。

ただまあ、前作に比べるといろいろな意味で読みやすい。私にとっては。多分誰にとっても、ということではないんだろうと思うけれども。また何か機会があったらこの本についても書いてみるかもしれない。

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