3296.『超バカの壁』:「仕事というのは、社会に開いた穴です。」(09/12 13:11)


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朝は曇っていたが、さっきから雨が降ってきた。それもかなり本格的な雨。今日は土曜日だけど、いろいろなところで工事もしていないだろうから、逆にスムーズに動けるかもしれない。

<画像>超バカの壁 (新潮新書 (149))
養老 孟司
新潮社

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養老猛『超バカの壁』(新潮新書、2006)を読んでいる。養老の本を何冊も続けて読んでいるのでちょっと食傷気味ではある。現在116/190ページ。少しインターバルをいれようと思うので、今日は多分あまり読まないと思うが、面白いと思ったことを一つ書いておきたい。

「仕事というのは、社会に開いた穴です」(19ページ)。この考え方は面白いと思ったし、なるほどと思う。自分にも穴が開いているように、社会にも穴が開いている。

よく、「心の中にぽっかりと穴が開く」、という表現があるけれども、なんだかあれは私にはすごくよくわかるなあと思う部分があって、自分がいつもいろいろやっていることの多くはそういう穴を埋めているということなんだよなあと思う。心に関しては「心を正常に戻す」というのが最大の穴だが、身体も正常に戻すためにいろいろな穴を埋めたりする。活元運動をしたりするのは、そういう穴を自分でもとに戻るように訓練しているわけだ。欲望というのは、考えてみたら自分に何か欠落が生まれて、それを満たすために起こるわけだから、食べたり寝たり癒されたり楽しんだりするのもある意味穴を埋める行為だ。自分の穴を埋めるのは自分のための仕事だが、社会の穴を埋めるのは社会のための仕事で、それが本来の意味での仕事だ、ということはその通りだと思う。人はその穴を埋めることで社会に貢献し、そのお礼として給料や報酬を受け取る。そう考えてみると人は社会のために仕事をするのだということがよくわかる。

まあいわばこれは社会有機体論的な考え方かもしれない。社会を人間のアナロジーと考えるのがある意味でわかりやすい。

穴は社会の動きの中で生まれてくるものだから、仕事は向うから勝手に生まれるわけで、「自分にあった仕事」を探すというのは「自分にあった穴を探す」ということになり、これは現実問題としてなかなか難しい。目の前にある穴を埋めているうちにそれが仕事になっていく、というのがほとんどだろう。

そして、仕事というものが最終的にはマニュアルのきかないものであるのは、社会に開いた穴の形は実にさまざまで、いかにその穴にあわせた埋め方が出来るかということに仕事の良否はかかっているから、マニュアルだけでは本来は乗り切れないのだ。

穴はいろいろな形で開いている。たとえば、「最近心に響くピアニストがいないよねえ」というのも穴だ。その穴を埋めるには特別の才能がいるからその穴を埋めるのに私が適任ではないことはよくわかる。「こういうことをわかりやすく教えてくれる人はいないだろうか」という穴なら、まだ自分にも埋められるかもしれない。その穴は、言葉でいまだ表現されていないかもしれない。そういう言葉になっていないけどみんなに必要とされている穴、を見つけてそれを一気に解決するような仕事が出来ると、彼は成功者になる、というわけだ。

つまり仕事はこっちの都合で存在するわけではない。だから、こっちの都合にあった仕事というものは基本的にはありえないもので、これなら自分がやれるかなあという穴にあわせて努力して埋めてみるしかないわけだ。

そういう意味では、考えてみたら今までもいろいろ自分は自分なりに努力してきたなあとも思う。

自分のやりたいこと、は自分のためにやるわけだけど、誰かが必要としていること、は社会のためにやるわけだ。未熟ではあっても、そういえば私は若い頃は、困っている人、迷っている人、疲れている人の相談相手になったり、励ましたり助言したりすることが多かった。あれはわりあいそういうことが好きだったということもあるけど、もちろんその人の役に立っているという感じが好きだったからなんだと思う。

しかしそれはまある種若い頃の気まぐれで、自分のいえることややれること、助けてやれることが本当に限られていて、自分よりもその役回りにふさわしい人がたいていの場合はいるんだということがわかってくると、あまりそういうことに熱心ではなくなった。


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