2955.40代の創作者が集まってパート2/自作を読んで貰っての感想・意見を聞いて思ったことなど/落ちなかった汚れが落ちた(09/13 13:32)


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昨日は3時に新宿で待ち合わせて、6月のメンバーで会って飲んだ。今回はライターのKさんが来られず、コピーライターのG君が新たに参加。(今回も基本はイニシャルトーク)I君と同様、私の高校の同学年生で、卒業以来初めてだったが、I君とはずっと付き合いがあったのだそうだ。最初はG君の話をゆっくりと聞く。G君が今の日本映画のパブリシティに関わっていることもあって主に映画の話。私は最近全然映画を観ていないのでもっぱら聞いていた。話を聞いているとI君は本当に友人たちと深い濃い付き合いをしてきたんだなあと感銘を受けた。熱いやつだとは思っていたけど本当に熱い。いろいろな人を巻き込んでムーブメントを起こす力というのは、こういう熱さなんだなあと実感する。

新宿西口の思い出横丁(小便横丁の方が通りがいいが)の店の二階というシチュエーションは、前回の井の頭公園前の焼き鳥屋に比べてより話の距離を近くできた感じがあったし、会うのも二度目だということでより突っ込んだ会話が出来たのもよかった。今回は私とI君が小説作品を提供して事前に読んでもらい、それについてそれぞれ思うところを言ってもらったのだけど、私も小説を書き始めてからなかなか人に読んでもらう機会が少なくて、何人かの人に一つの場で意見をもらうという経験も初めてだったのでとても有意義だった。自分が見えていることと見えていないこと。何を意識したらいいのか。芝居をやっているときに、自分が見られている視線を意識するということが楽しくてやっているという面があったけど、小説を書くということは、読者の視線を意識するということがとても重要なのだと思った。芝居が観客がいなければ成立しないように、小説も読者がいなければ成立しない。こういうブログは、読む人がいなくてもある意味成立するところがある、書き留めることが自分にとって有益であればある程度の意味はあるわけだから。しかし小説というのは小説家が舞台に立って演じるようなもので、読者は何を見せてくれるのかとわくわくしているのだ。だから小説家は読者の期待にこたえて、あるいは読者の期待を裏切って、「何か」を見せなければならない。それはスペクタクルであるかもしれないし、日常の隙間に潜む不条理的なものであるかもしれない。それは何でもいいのだが、読者が「うーん読んだ」、という実感を得られなければならない。

こういうことは、実を言うと自分にとっては新鮮なことだった。芝居をメタファーにして考えるとなるほどそういうことかというのがよくわかる。演技がうまくなる、というのは別に嘘がうまくなるということではなく、自分の身体が舞台の上に立っていることに耐えられるようになるというか、どこから観客に見られてもOK、どこからどんなふうに見られても面白い、という存在として舞台の上に立ち続けることが出来る、ということだと思う。

舞台の上では、私は基本的にサービス過剰というか、一つの演技にいろいろなものを織り込んでいくのが好きな方で、やたらと芝居が長くなったりしていたのだけど、文章に関してはそういう姿勢はなくて、もともと詩を書いていたせいもあって最小限の言葉でなるべく暗示的に状況を示し、なるべく暗示的に心情を看取させ、読んだのか読まなかったのかわからないけど何かが心に残った、みたいなものをある種の理想と考えていたところがあった気がする。このブログなんかはまあ、基本的に書き過ぎであって、お洒落じゃないというか「みなまで言おうとするな」みたいなことを常に思ったりしていたのだけど、最近は少し考え方を変えて、なるべくきちんと書き込もうという意識も持つようになっている。わかる人にはわかる、的な書き方をどちらかというとずっと試していたようなところがあるのだけど、まあそれも一つの技法としてありだなとは思うが、基本はきちんと書き込む方向にしたほうがいいなと思ったのだった。

舞台上の演技もそうだが、動きを節約してみせるというのは基本的に上級者の技であって、隙がないように埋めていく方向で芝居を作る方がテンションの落ちない芝居をつくる上では作りやすい。文章に関してもそういうことなんだなと思う。


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