20.現代において保守思想を学ぼうとすること/国学という広い深い世界(03/08 08:08)


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それに関連して一つ印象に残ったのは、引用されている「石上私淑言」からの「天照大神ノ御心」で、これは元々は日本の良さとして語られてきた「自然」であることからの一歩進んだ認識で、つまり「自然」という考え方そのものが中国的であるというところからより宗教的な言い方を採用したということなのかなと思ったのだけど、「そもそも神は、人の世の仏聖人のたぐひにあらねば、世の常におもふ道理をもてかく思ひはかるべきにあらず。神の心はよきもあしきも人の心にてはうかがひがたき事にて、この天地のうちのあらゆる事は、みなその神の御心よりいでて神のしたまふことなれば、」みたいな話が「ヨブ記」であるとか「予定説」的なキリスト教っぽさを感じた。一面、書いてみて会津の「ならぬ事はならぬものです」とか薩摩的な「議を言うな」的なものとの共通性も感じたが、こう言う言は確かに権力者に利用されたらやばいっぽいものではあるが、「自然」と言う概念の発展系だと思えばその言葉の内実ももう少し違うものが見えてくる感じがあった。

もう一つ、日本近代において「日本思想史」や「文献学」が構想された時に本居宣長が「発見」され、その一つの柱として位置付けられたと言うこと。そう言う近代意識の中で宣長が位置付けられたからこそ、綿密な考証家としての宣長の姿と、上に書いたような不可知論的な宗教家めいたことを言う宣長が分裂して見え、そのイメージの統合に苦労してきたと言うことがあると言うのはなるほどと思った。

現代の思想史学の立場としては特に戦前に構築された思想史学の批判ということがある種責務として認識されている感があり、つまりは宣長がこのようにして「日本近代思想史学」に「利用」されたがために「皇国史観」というにつながっていったのだというような図式が見えて、それはそれでなるほどとは思ったが、むしろそういう近代の思想史家の、津田左右吉、芳賀矢一、村岡典嗣と言ったところを目を通していかないといけないのかなと思った。

この辺りも、昨日読んだ第一印象と、今ブログを書こうとして読みながら書いているときの印象とではかなり違っているので新しい分野を齧ることの難しさみたいなものを改めて感じるのだけど、第一印象でしか得られないものというのもあるので、そのあたりも記録しながら読んでいきたいと思った。

国学のナショナリズム化という点においては大国隆正が大きな役割を果たしたようなので、その辺も読んでみたい。大国隆正は一冊持ってはいるのだが、まだ読んでいない。

少し見ただけでこれもかなり広い世界だなと思うが、少しずつ読んでいきたい。



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