そして、だから価値がないということはないわけで、その時代によって、その書き手によって、本質の掴み方やその人の個性を反映して何を大事にするべきか、どこを強調したいかは変わってくる。「人は言葉でしか考えられない」というのは全くそうで、「言葉でしか考えられないし説明できない」わけだ。まあ、漫画とか絵というものはそれを超えた考えや説明も可能だという考え方もあり得るが、それはそれをある種の記号として扱っているという意味で、記号=言語であると考えれば同じことになるだろうなと思う。
それを「言葉の綾」といっているけど、抽象化することで起こるリスクみたいなことと言えるし、問題が混在してしまうことで本質がわからなくなるということでもある。
そしてそこに深入りしすぎないで奥村とリリサが今どういう問題に直面しているのかを正面から指摘し、奥村はその指摘をさらに超えて「二人が作りたいもの」という発想に至るのは、逆に言えばエリカが「自分が作りたいもの」をユキに「協力してもらって」作っているということに対する気づき、自覚、ある種の痛みみたいなものも感じられて「二人=コンビで作ることの本質的な意味」みたいなものが立ち現れてくるように思う。
そこまで考えてみると、エリカが奥村たちを撮影に誘ったのは、リリサと奥村が二人であーでもないこうでもないと議論するところをユキに見せることで、「コスプレをやめたい」といっているユキに対するメッセージにしたい、という意図があるのかもしれないと書いていて思った。
こういうところは本当にジャンプ漫画として王道だなと改めて思うのだけど、今後の展開にさらに期待したいと思う。また、創作そのものが「夢」であり「夢の実現」であるのだけど、そこに挑み続けて「夢」につないでいくことで、立ち現れる素晴らしいものが無限にあるのだなとしみじみと思ったのだった。