3360.読売新聞の村上春樹インタビュー:『1Q84』をめぐって(06/17 10:33)へのコメント


by shakti(06/17 12:06)

>作中で「リーダー」は幼い娘たちと交わったということで殺害さえされるが、同じ方向の行為を主人公である天吾もしている。このあたりのところは読んだときはあまり重大に考えなかったが、村上がそういうならばこのあたりに何か意味があるのかもしれないとも思う。

お、村上、言ってくれていましたか。私も注目していたところ、ただし、巨乳なので罪が軽くなる? 

>神話的なアイコン」としての「リトル・ピープル」が新たな座標軸になりえるのではないか、と言ってるのかどうか、ということもよくわからないが、少なくとも物語中では「リトル・ピープルに受け入れられ、利用されるもの」としての「リーダー」と、それに反旗を翻したものとしての「ふかえり」が描かれている。

ここが面白いですよね。ふかえり(読字障害)+テンゴ(作家、文字の人)とが組んで、それが対抗聖書にもなりうるし。。。おそらく小説=物語なので、そういう一次元的な者に陥らない文字(=物語)への可能性となる。 ふかえり+テンゴはアラーの声を聴く書記官たちにはならないはず。

ところで平均律は全二冊で終わりなんですけれど。こんどはシスタコビッチとかのピアノ曲がでてくるのか? フーガの技法とかだと嬉しいが(意味不明)
by kous37(06/17 13:29)

誤解のないように付け加えますと、村上が天吾とふかえりの交わりについてコメントしているわけではありません。林泰男が「正しいこと」をやっているうちにいつのまにか死刑を宣告された、ということの作中での例を考えると、リーダーと天吾のふかえりたちとの交わりということになるのではないかと、shaktiさんの指摘が頭にあって、私が思っただけです。

ギリヤーク人の話にふかえりは共感を示し、猫の町の話には「お払い」が必要だというふかえりの判断が、「リトル・ピープル」たちによる判断と鏡の裏表なのではないかという気がします。何がよくて何がまずいのか。フィクションはお払いが必要でノンフィクションはそうではないのか。よくはわかりません。
by shakti(06/17 20:43)

>「リトル・ピープル」たちによる判断と鏡の裏表なのではないかという気がします。

テンゴのせりふで、リトルピープルと、ギリヤーク人とふかえりが森の人だというのがあります。また、ふかえりは、リトルピープルにたいして中立的な立場だという感想もありました。意味ありげでしたよね。

作家は、森の人を観察し、記録し文字化するわけですが、これは作家論・文学論となっていますよね。村上自身のオウム被害者インタビュー記録体験、ふかえりの作品のテンゴの書き換え、む文字文化ギリヤーク人を記録するチェーホフだとか、様々な題材をとりあげて共通するテーマを繰り返しているのですから、面白いですね。
by kous37(06/18 12:25)

文字にかかれないものを文字化するのが作家だとしたら、それはどういう意味を持つのでしょうか。リトルピープルは明らかに文字化されることを嫌っていますよね。でも同じ森の人であるふかえりは文字化されることを望んでいる、というか少なくとも否定してはいない。

文字化されて近代知の中に取り込まれることは、ギリヤーク人などにとってもひとつの悲劇かな、という感じ方はあると思うし、私はどちらかというとそういう感じがしました。しかし文字文明の中に生きているオウムの被害者は文字化されることによって明らかに救済されている側面がある。

リトルピープルは人間性の本質みたいなもので、書かれたがっていたりそれを拒絶したりしているのかもしれない。そうであるとしたらもちろん書き尽くされることは不可能ですし。白雪姫でも七人の小人と白雪姫は共生しますが、やがて白雪姫は現世に戻っていく。小人の世界はある種のアジールに過ぎないともいえる。作家が書くという行為は、そのアジールの秘密を暴露する可能性もあるわけで、それが拒絶にも繋がっているけれども、ふかえりはそういういことはあまり心配していない。そこから「猫の町」に行ってしまった人も引き返させるすべを持っているからなんでしょう。

この物語の終わりは、天吾も青豆もふかえりも、その他のたくさんの人々も相当宙ぶらりんの形でストップモーションをしており、また魔法が解けることによって動き出す人物みたいに見えます。

この後村上が書きつづけるかどうかも、リトルピープルによる判断にかかっているのかなと、そんなことも思いました。
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