【堀越二郎『零戦』を読んでいる:昭和12年の日本と宮崎駿の「戦前」】
<画像> | アニメージュ 2013年 08月号 [雑誌] |
徳間書店 |
『風立ちぬ』についていろいろな批評が出ている。評価が大きく割れているのがこの映画の特徴だと思うが、ツイッターで「普通の人」の感想を見ているとおおむね好評だ。そしてこの映画に関しては、自分の評価に固執しようとする人がかなり多い感じがして、必然的に自分と対立する意見が「凄く多い」と感じているのではないか、という感じがする。
それにしてもずいぶん怒ってる人が多い。しかし怒ってる人特有の現象で、何を言っているのかよくわからない人が多い。何を言ってるのか分からないのはこちらの理解力の力不足もあるのだろうけど、自分が理解できないものを何をどう批評すればいいのか分からないし、分からないまま批判するのも礼儀違反だろうから、個別の批判に対して反批判をするのは今の時点ではやめておいた方がいいのだろうと思う。まあ大体、私は怒ってる人の怒りってよく理解できないことが多いのだけど。その割には自分も腹を立てるのだが。自分の怒りに対しては理解できるのかというと、それもあんまりよくわからないからあとで分析したりはするんだけど。人のはともかく、自分の怒りくらいはもう少し理解しておきたいとは思うが。
ということで、昨日書いたように私は『風立ちぬ』を大変良かったと思っているので、自分が理解できない理由で批判されているのを見るとやはり腹が立つ。断片的にいろいろ理由を拾い集めてこういうことかなと批判される理由を考えてみるのだが、何だかどう考えても妥当とは思えず、裏に何かあるんじゃないかとか変な方向に考えてしまうので分からないことは分からないとしておいた方がいいのだろう。『赤毛のアン』の何が面白いのかいまいちわからないということと同じで、批評は避けよう。
ただまあ、それでほっておくのは何なので、とりあえず自分がなぜこの映画をいいと思ったのかについて、もう少し掘り下げて見るといいのかなと思った。まあ人の意見は、結局は自分の考えを深めるためにしか役に立たない。こういうことで腹が立つと、いろいろ考えたり書いたりしようとする動機にはなるので、たぶんありがたいことなんだと思う。
まあ腹を立てるのはその対象になる現象の問題というより腹を立てた本人の問題であることが多いし(私も含めて、というか私は特に)、それを見ている人が理解できないことが多いのはまあ仕方がないと言えば仕方がないのだけど。
その前に日常雑記。