5020.積み重ねとカン/構想力・構築力・仕上げ力(07/06 15:08)


ある仕事、ある勉強をするとき、一つ一つ大事なことを押さえ、技術を積み重ねていくことは大事だが、最後まで積み重ねだけでいけるかというと、そうはいかない。最後のところは、結局センスというか、カンの問題になってしまう。このカンのいい悪いというのはかなり重要な問題で、場合によっては致命傷になってしまうこともある。

もちろん、逆にカンにばかり頼るのも問題がある。積み重ねていくべきものを積み重ねていないと、いわゆる「自己流」に陥ってしまう。私などはそのように積み重ねていくのが苦手なたちなので、そのあたりでは後になってだいぶ苦労した。

しかし、結局はどちらかだけではだめなのだ。何かを作るときに、骨組みをきちんと作り、骨格や筋肉がきちんと動くようなものを造るためにはまずは積み重ねたものをフルに発揮する必要がある。しかし何かを仕上げようとするとき、全体のバランスをみながら削るべきところを削り、付け足すべきところを付け足してwellmadeなものを作り上げるためには、やはりカンとかセンスの問題が大きくなる。これは、例えば使う側がどういう風な心の動きをするだろうか、とか、このことからそのことにまず間違いなく連想が飛ぶだろうといったような、伝統的な文脈の押さえ方と想像力といったものが最後には重要になってくる。

結局、最終的には「相手のことを考える力」ということなのだろう。その意味でのセンスとカンの重要性は強調してしすぎることはない。別の言い方をすれば「仕上げ力」とでも言おうか。

すると、積み重ねるべきものによって得られた力はどのように言い換えればいいだろう。そのものの仕組みを内在的に理解したことによって得られる力は、「構築力」とでも言えばよいか。

そしてその前に、問題の所在を見抜き、現状を十分把握して、解決すべき問題の本質を明らかにし、それを解決するための仕組みそのものを作り上げていく、いわば「構想力」とでも言うべきものが必要になる。

構想力、構築力、仕上げ力。「学校で勉強できるもの」というのは結局は「構築力」の部分だけかもしれない。本質を押さえた構想力とインターフェースの仕上げ力とでも言うべきものは、実はやや似ている部分があるような気もする。センスとかカンが、その人間を構築している根幹の価値観と、実はかなり関係があるのではないか。

なんだかうまくいえないが、構想・構築・仕上げの三段階は本来三位一体でなければならないものなのだと思う。しかし、今の学校教育というものは構築の部分ばかりが肥大化しすぎていて、なぜそれをするのか、何のためにやるのか、といったところが見えなくなってしまったために、個人も社会もさまざまな構築的力量ばかりが暴走する状況になりつつあるのではないか。

このテーマ、もう少し掘り下げてみると面白い気がする。

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