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こうの史代『街角花だより』

街角花だより

双葉社

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丸善でひらはらと本を見ていたら、なんとなく惹かれるものもいろいろあったのだけど、こうの史代『街角花だより』(双葉社、2007)が出ていたので買った。プレッセで買い物し、そのまま地下鉄で帰宅。電車の中で『街角花だより』を読み始めたが、すぐに夢中になった。

帰ってからもMTと取り組みがてら『街角花だより』を一気に読了。この作品、こうのの初期作品集ということになるわけだが、とてもよかった。1995年、27歳の時の作品から2003年まで。冒頭だけ今年の作品が書き下ろされているが、シリーズだ。本人は肩に力が入りまくっていて空回りしていて、「これを書いたやつ本物の馬鹿だなあ、と思います」と書いているが、どうしてどうして、私は好きだ。まあ本人もそうは言いつつ、「一生そう自分で思える作家で居られ続けるといいなあ、と思います」とも書いているわけだが。

読んでいてどうしてこんなに面白いのだろうと思う。一見大人しいのに実はバイオレンスだから?なんてことを考えたり。こうのの絵は手が大きくて、頭が大きくて、手塚治虫や藤子不二雄のマンガの王道を受け継いでいる。こうのの作品を読んでいて感じるものは、バイオレンスまでの脳天気さ(楽観性というべきだが敢えてそういいたい)、頑ななまでの意志、ある種の毒、といったものだ。

この意志、というのは私は女性作家に感じることが多く、高野文子や近藤ようこが好きなのもこのある種驚嘆すべき「意志」の強さにあるなあと自分で感じている。男の作家が表現する意志というのはもっと前のめりのもので、意志というよりは速さ、ドライブ感のようなものなのだが、女性作家の意志というのは粘り強いというか、やわらかいけれども決して折れることのない、とでも言うか、そういうものが表現されていると思う。フランス語で意志、ヴォロンテとは女性名詞だ、何てことも思う。

本物の馬鹿と自称するこのバイオレンスさも私はとても好きだ。というか、これが強く出ているこうの作品にとても惹かれる気がする。毒、というのはまあいいんだけど、というか文学性の強い作品には必ず毒があってそれが作品のエスプリ、精神のようなものなわけだが、こうのの毒はオブラートに包んでいてなかなか危ない。『街角花だより』は花屋に勤める二人の女性の友情物語、見たいなものなのだが、このへん『バグダッド・カフェ』をなんとなく思い出した。こういうものをフェミニズムは取り込もうという感じのところがあって、ちょっとやめてくれと思う。このまだ名づけられない毒が名づけられないままであるからよいのだ。変に名づけないでほしいと思う。

そういうふうに考えてみると、こうのの代表作『夕凪の街桜の国』はその毒が、それとは必ずしもストレートに分かるほど野暮ではないけれども、かなり明確に「正義」になっている。それはとても控えめな正義で、控えめであるからこそ激しい表現になっている、というようなものであるのだけれど、やはり正義だし正義でなければこの作品は成り立たない。つまり、正義とは毒なのだ。『夕凪の街』がすごいのは、毒である正義の、毒である部分を真正面から引き受け、あるいは正義である毒の、正義である部分を真正面から引き受けているところにある。

しかしあまりそういう抜き差しならないところでこの作家には書いてほしくない。名づけられる前の無名の毒を描き出すことが、作家の本来の仕事であるはずなのだ。そしてそう狂的な澄んだバイオレンスと、男なら哀愁になってしまうところに現れる意志、それが少年漫画と少女漫画の王道を受け継いだ絵によって表現されていく、そういうこうの史代の世界を読み続けていたいものだと思う。

こうの作品を読んでいると、懐かしい気持ちになってくる。そうか、第4の要素はノスタルジーなのだ、と思う。

自分にとってノスタルジーの対象の時代といえばいつも書くが80年代なのだが、80年代にあまり売れずに、でもいいものを作り続けていた人たちがところ時を越えて現代、いろいろなシーンで活躍しているのを見ることは楽しい。アート系のマンガを書いていた人たちの多くは、ゲームであるとかウェブデザインであるとか、ネット・PC系の活躍の場所を得て頑張っている人が多いようだ。むかしなら食えて行かなかった人たちが、コンテンツ産業に場所を得ているということは、そういう意味でいうと本当によいことだと思う。私自身もおくればせながら、ウェブでやっていける人間になれればいいなと願っている。(2007.4.3.)

街角花だより

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