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   <title>風の強い日／ネガティブな思いが、実は生きる原動力になっている／小林よしのり『ゴーマニズム宣言Special 昭和天皇論』</title>
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   <summary>なんか今日はいろいろ思ったこと、考えたことが溜まっているのだけど、はっきりと言葉...</summary>
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      <![CDATA[なんか今日はいろいろ思ったこと、考えたことが溜まっているのだけど、はっきりと言葉にならない部分が多く、書こうと思っても多分そんなに上手くはかけないことが多くて、でもきっと書くという勢いだけはあるので余計なことをずらずら書くかもしれないという予感が少々。

昨日は午後、仕事がけっこう忙しく、また飛び入りでいい意味での予定外もいろいろあったのでよかった。6時半に仕事を終え、7時前の特急で上京。弁当が売り切れていて、車内販売の稲荷寿司を買ったがこれもそれなりに美味しかった。車内販売で変えない場合に備えてパウンドケーキとビスケットを買っておいたのだが、いなり寿司とそれらを食べたら大体十分になってしまった。

東京に着き、地元の駅前の文教堂を覗いたら、小林よしのり『昭和天皇論』（幻冬舎、2010）がでていて驚いた。小林が新刊を出すということはSAPIOなどでも予告されていたから知っていたのだけど、まさかこんなど真ん中の直球の剛速球を投げ込むとは。しかも全編書下ろしというのは、今までにない労作だ。小林の力の入れ具合を感じ、一も二もなく購入した。

帰宅後、『美の巨匠たち』でデンマークの画家の話を見たり、スポーツニュースでダルビッシュが打たれるのをみて今度はがんばれと思ったり、『ミューズの晩餐』でチェロ奏者がショパンについて語るのを見たりしてから『昭和天皇論』を読み始め、2時くらいまでかかって読了した。感想はあとで。

今朝は8時過ぎに起床。寝床の中で強風を聞く。起きたころには少しはおさまっていたようだ。でも予報を見ると今日一日は風が強いようだ。午後から湾岸に出かけることになっているのでちょっとちょっとなんだが。

***

昨日の午後、忙しい仕事の合間にふといろいろな考えが浮かんだ。昨日のブログに書いたことの中で、子ども時代の自分を今の自分が教えられたらなあ、というようなことを書いたけれども、私が「教える」ということにこだわりがあるのは、自分の子どものころに先生、あるいは「師」といえる存在に恵まれなかった、という思いがずっとあるからだなあということに気がついた。そういうルサンチマンというか、そういうものが結局、自分に「教える」ということに対する情熱を付与しているのだということに。自分の子ども時代は過ぎてしまったから、もうその時期に「与えられたらよかったのに」と思う教育が与えられるということはない。だから今の自分がどんなにいい指導をしようと工夫を凝らしても、それが満たされるということはない。逆に言えば、満たされないからこそいつまでもそういう工夫をし続けられるということでもある。思いもかけなかったことなのだけど、自分を動かす原動力というのはそういうルサンチマンのようなものだった、あるいはそういうものが大きい部分を実は占めていたのだということに気がついたのだ。

今まで私は、そういうことを考えたことがなかった。人を見て、明らかにこの人はルサンチマンをバネにがんばってるな、と思う人がいると、むしろちょっと嫌だな、と思っていた。つまり、人間の「やりたいこと」というのは、人間の明るい部分の中にある興味や関心、好奇心と言ったものからでてくるもので、人間性の暗い部分であるルサンチマンや苦しみ、衝動と言ったものからでてくるものとは違う、と思っていたのだ。

こう言葉にして考えて見ると、そんな暗さをバネにしてすごい作品を書いた人がいくらでもいるのに、どうしてそういうふうに考えなかったのかという気がしてくるのだけど、自分自身がそういうことが苦手だとかそういうものと向き合うのを避けて来たということ以外に、明るい部分と暗い部分の二分法のようなものが私の中で刷り込まれていて、明るい部分にだけ関心を集中するような心の動きを周りからも自分自身によっても訓練されていたのだなと思う。禅の言葉を読んでいて、そういう二分法みたいなものが必要ないんだな、と感じたことが無意識のうちに自分の意識の中で自分がやりたいことをやる、自分を動かす原動力というポジティブなイメージで語られるものとルサンチマンというネガティブなイメージで語られるものを結びつけることを可能にしたのだと思う。今まで、そういうことは本当に考えないようになっていた。自分自身を自分自身から隠す、という心の動きが私にはけっこうあって、そういうところで自分が分からなくなってしまうことがよくあるのだけど、まさにそんなことだったんだなと思う。

私がダンテの『神曲』が好きなのは、ダンテの情念が書きつくされ、地獄に行っているはずだと感じている多くの人々が書き込まれ、フィレンツェでの争いに敗れて追放されたこと、若くしてベアトリーチェを失った悲しみなど、数多くのものがついに浄化されていくからで、そこに幻視されるさまざまな風景の魅力は、既に書かれたものからはダンテの苦しみや怒り、恨みといったものはきれいに拭い去られ、残っていないけれども、そういうものを原動力としなければそれを昇華し、巨大な精神世界を描くこともまた出来なかっただろうと思う。

そういうマイナスのパワーはクリエイティブな方向に上手く方向付けられればいいけれども、破壊的なほうに方向付けられるとヒトラー的な、悪魔的な破壊力を持つこともまた確かで、だからこそネガティブなパワーは封印されるべきだと多くの人々が考えてきて、それに私自身も共感していたということがあるんだろうなと思う。

ただ、生きるということは苦しみだ、という仏教の一切皆苦の教えは、実はだからそれに耐えるしかない、という消極的な教えなのではなく、苦こそが生きていく原動力に、創造の原動力になりうるという180度転換するための教えなんじゃないかなとそういうことを思った。そうなると「避けるべき」苦というものは消えてなくなる。苦があればこそ生きられるのだから。そうなればこの世には何もなく、からりと晴れた無限の空が広がるだけで、だから苦しみから人を救うよう導くべき「聖なるもの」の存在もまた幻のように消える。それを達磨は「廓然無聖」と称したのだろう、と思う。

だからすべてのものを、避けるべき苦であるとか、必要な生の原動力であるとか、分けているからわからなくなるのだ、ということが禅の教えなんだろうと思う。

たとえば韓国でいう「恨（ハン）」という概念があるが、考えてみたらこれはそういうことだろう。恨みつらみ苦しみが生きる原動力、と教養のある韓国人が書いているとああ日本とは違うなあ、なんかそういうの嫌だなあ、と正直言って思っていた。韓国人にあまりいい感情が持てなかったのも、実はそういう部分が大きい気がする。恨（ハン）のみが生きる原動力だといわれると、どうかな？とは今でも思うけれども、そういうことなのか、ということは少しは分かり、少しはいいたいことが通じてきた気がする。

未来は明るい部分から出てくるべきで、暗い部分は克服すべきものだ、という二分法が自分を呪縛していたんだなと思う。明るい部分だけで出来ている人間などいないのに、自分に暗い部分があるということが、私自身、ずっと許せない感じがあり、それを感じるたびに無力感のようなものに負けそうになっていた。「やりたいこと」を考えようと思っても、自分の明るい部分からだけでは出てこないことも多く、何だかどうしたらいいんだろうと思うことも多かった。植物の根が暗いほうに向かって大きく伸び、それが大地に根を張って植物を支えているように、暗い部分こそが明るい部分に伸びるためのさまざまな可能性を育んでいるかもしれないということに、全く思い当たらなかった。

考えてみたら、モーニングページというのは本来そういうもので、泣き言を書いたり自分のイヤな部分、暗い部分を書いたりしているうちに、自分がやりたいことが見えてくる、ということがあるんだろう。いい先生にめぐり合えなくて嫌だったな、ぶつぶつ、と書いても何も生み出さないかというとそうではなくて、そう書くことで、それで自分が「教える」ということ、いい「師」であろうとすることに強いこだわりをもつ理由が見えてくる、ということもまた、モーニングページの建設的な役割なんだろう。そう考えると、今でも私のモーニングページはネガティブ度が足りない気がする。もっとネガティブなことをぶつけた方が、もっと元気が出てくるのではないかなと思った。

***

<table><tr><td><a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0%E5%AE%A3%E8%A8%80SPECIAL-%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87%E8%AB%96-%E5%B0%8F%E6%9E%97-%E3%82%88%E3%81%97%E3%81%AE%E3%82%8A/dp/4344017951%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4344017951"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51Dz1cgG0cL._SL160_.jpg" border="0"></a></td><td><b>ゴーマニズム宣言SPECIAL 昭和天皇論</b></br>小林 よしのり</br>幻冬舎</br></br><a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0%E5%AE%A3%E8%A8%80SPECIAL-%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87%E8%AB%96-%E5%B0%8F%E6%9E%97-%E3%82%88%E3%81%97%E3%81%AE%E3%82%8A/dp/4344017951%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4344017951">このアイテムの詳細を見る</a></br></td></tr></table>

小林よしのり『ゴーマニズム宣言SPECIAL 昭和天皇論』。一気に読了。これは読み応えがある。昭和天皇について考えもしなかったことがいろいろ考察されていて、読みながら興奮したり涙ぐんだりした部分がたくさんあった。小林は、今までの著作でもそうだが自分の意見を説明するのが上手いと思うし、情景を描写するのも上手いと思うが、その本質はドラマを作ることにあるんだということを今回初めて思った。近代史の本を読んでいても、面白いと思うことはたくさんあるけれども、そこにどういうドラマがあったんだろうということをそんなに的確に想像できるとは限らない。しかし、小林は自分なりにじっくり考えた末だろうが、「この出来事はこういうドラマだったのだ」ということを解釈し、それをドラマチックに書くことが非常に上手いのだ。『東大一直線』のころのドラマツルギーはどちらかというと展開していくドライブ感のすごさが彼の作品の魅力だったのだけど、『戦争論』のころからか、「間」の使い方がとても上手くなって来たように思う。今回の作品でもずいぶんその「間」には泣かされた。対象が対象だということもあるが、一筆入魂というか、一つ一つのカットにずいぶん力が入っているのを感じる。『脱正義論』などでは人の醜悪さを描くのにそういうものが使われていたけれども、『戦争論』のころから人の美しさ、素晴らしさを描く心遣いのようなものが絵に表れてきて、そのためにとても共感を呼ぶようになったのではないかと思う。

昭和天皇とマッカーサーの関係というのも面白い。昭和天皇はアメリカ訪問の際、結局マッカーサー記念館には足を運ばず、それに怒った未亡人はホワイトハウスからの招待を断ったのだという。彼らの関係が単純なものでなかったのはこのことでも分かるし、昭和天皇が一筋縄で行かない人物であったこともよく分かる。

終戦の詔勅とか、昭和21年年頭の詔書、いわゆる人間宣言なども全文を引用し、それを詳細に検討して、昭和天皇の意がどこにあったのか、またGHQの目論見をいかに換骨奪胎したのかというところもよく分かり、全く痛快だ。

終戦の聖断に関する鈴木貫太郎と阿南惟幾の件は圧巻だ。私は靖国神社の遊就館に行くと、いつも阿南の血染めの遺書、『一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル』を見ると深い感動と悲しみに襲われるのだけど、その当たりのことが本当によく書けていると思う。ポツダム宣言の条件つき受諾（国体護持の一点）を申し入れた日本に対する連合国の回答を巡る議論の末、昭和天皇が阿南に「阿南よ、もうよい。心配してくれるのは嬉しいが、もう心配しなくともよい。私には確証がある。」と告げる場面の天皇の微笑みは、何度見ても泣ける。二度目の御前会議の延期を鈴木首相に申し入れ、拒絶されて退去するときの顔を見た迫水書記官長が鈴木に「…阿南さんは死にますね」とつぶやき、鈴木が「うむ、気の毒だが…」と答える場面は、この難局を乗り切ろうとする鈴木と阿南の阿吽の呼吸が現れていて、何も言わない鈴木の万感の思いと、阿南の決意の双方の美しさが胸を打つ。昭和天皇は阿南自決の報を聞き、「阿南には阿南としての考え方もあったに違いない。気の毒なことをした」と言われ、戦後の巡幸のときに阿南の未亡人を特に呼び出して言葉をかけられたという。

天皇の沖縄発言、戦後の巡幸についてもかなりのページ数を割き、近衛の自決についての天皇の言葉についても描いている。講話条約締結をめぐるダレスとのやり取りについては始めて知ったが、確かに政治家には出来ない重要な役割を昭和天皇は果たしていたんだなあと思う。また、敗戦という未曾有の苦難を乗り越えるときに昭和天皇が心の支えにしたのは白村江の戦に敗れて緊急に国家の立て直しを図った天智天皇だった、というのも天皇という存在の日本における歴史的な意味をよく表現しえている。

巡幸の話もいいエピソード満載だが、佐賀の戦災孤児の孤児院を訪ね、その帰りにひとりの子どもが裾をつかんだまま帰りに車までついてきて、「また来てね」と言ったとき、「また来るよ、また来るよ」と答えて微笑まれたその絵など、静かなクライマックスを感じさせる。終戦時に住んでいた御文庫が湿気がひどい状態で早く住居をつくろうとの提案を昭和天皇はずっと拒まれ、昭和36年になって初めて吹上御所に移られた、という話も初めて聞いた。この本は、小林の畢生の代表作といってもいい出来に仕上がっていると思う。平成22年の現在にこのような本が出されたこと自体が、ひとつの奇蹟のような気がしてくる。]]>
      
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   <title>子ども時代の自分を教えるとしたら、自分はどんな先生でありたいか</title>
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   <published>2010-03-20T04:11:08Z</published>
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      昨日。10時過ぎまで仕事をし、帰宅して夕食、入浴。自室に戻って少し横になったら寝てしまい、ちゃんと布団を敷いて寝たのは2時半ごろになってしまった。最近毎日うたた寝をしてしまっているが、どうしたものか。ちゃんと着替えて早く寝ればいいのだが、それをする前に少し休みたいと思ってしまう。そんな風にしているから次の日に疲れが残ってしまうのかなあと思う。

昨日少し読んだ『碧厳録』の中の言葉を頭の中で矯めつ眇めつしていて、いい言葉だなあと思う。梁の武帝に「いかなるか聖諦第一義」（仏教の聖なる教えのうちで、一番大事なものは何でしょうか）ときかれて、達磨は「廓然無聖」（広々としていて、聖なるものと聖でないものの区別などないことです）と答えている。「廓然無聖」、いい言葉だ。「真理」などという枠のないことが真理なのだ、と言ってもいい。しかしまあ無理もないが武帝は混乱して「それでは私の前にいるあなたは誰なんですか。聖者ではないんですか。」と尋ねている。達磨はそう聞かれて赤面したのだろう。「不識」（知りません）と答えている。達磨が「私が聖者です」と言うとでも思ったのだろうか。自分を皇帝に売り込もうという俗物ならば当然そう言っただろうし、中国の伝統からしてそういう徒輩しかいなかったことは十分わかるので武帝がそう考えたのも無理はないかもしれないのだが、これで達磨は「この国には共に語るに足りるものはいない」と決め込み、「面壁九年」に入ったというわけだ。

「至道無難、唯嫌揀択」という言葉もいい。「道に至るのは難しいことは何もない、ただ、ことばであれこれ考え、良いと悪いを対立的に考えて取捨選択してはいけない。説明することによって道に至らせることは出来ない」という言葉もいい。これも簡単なことで、自転車に乗るのは簡単なことだが、口で説明するだけで自転車に乗れるかというとそうではない。乗ろうとする人がまず自転車に乗るという手続きが決定的に重要なのである。そのときに、倒れるから恐いとか補助輪がないと出来ないとかあれこれ取捨選択しても邪魔になるだけだ、ということだ。絵を描けるようになるためには絵筆を持たなければならないし、バイオリンを弾けるようになるためにはバイオリンを持たなければならない。基礎的な練習をするのにえり好みをしてはいけない。禅の真理を知るためには禅の真理を知るための修行をすればいい。禅の修業のえり好みをしてはいけない。単純なことだ、というわけだ。

勉強が出来るようになるには勉強をすればいいのだが、「正しい勉強」をしなければならない。正しい勉強と言っても別に方法はいくらでもあるからその中から好きなのを選べばいいのだけど、目の前のことを地道にやっていれば出来るとは限らない。目の前のことの理解の目標設定が間違っていたら勉強の意味がないからだ。たとえば英語の学習、とくにリーディングの学習の根本的な意味は英文の構造を理解しその構造に沿ってその文の意味を把握することだが、私などは高校時代、そのことが理解できておらずに、文の構造の把握も全然不十分なままよくわからなくなると結局知っている単語、調べた単語の意味をつなぎ合わせて和訳をでっちあげる、ということを予習と称していた。それでは全く意味がないのだが、文法や文の構造などというものは人間が真理を追究するうえでは取るに足りない瑣末な問題だという意識がどうしても抜けず、語学を真理追究の道具にすることに失敗してしまったのだ。考えてみれば文の構造をつかむというようなことができずにものごとの構造などつかめるはずがないのだが。

最終的にある程度自分なりに英文を読めると思えるようになったのは、もう40前後になってからだ。高校時代にもっと素直に英語に取り組む心構えと機会があったら、人生の成り立ちも全く変わっていただろうと思う。まあしかしそれも人生だ。だからアドバイスを求められると、「勉強の仕方を間違えないように」ということはいつも口を酸っぱくして言う。ただあんまりそういうことも本当には伝わらないなと思う。自分のことを本当に客観的に見られればいいのだけど、「心の中心に重心を置くこと」が出来ず、恥ずかしいとかばかばかしいとか嫌だとかやらなくても大丈夫なんじゃないかとかいろいろな気持ちに心を乱されて、なかなか勉強をやり直す機会が持てない。私などは本当に、信頼するに足る懐の広い、学識も見識も高く指導力も兼ね備えた本当の「師」が必要なタイプだったなあと思う。そういうものを求めてはいたけれども、結局そういう人に出会うことはなかった。まあそんな風に書くぐらいだから「師」に対する要求が高すぎたのだと思うけれども。でもだから、自分自身が、もし子供の頃の自分を教える機会に恵まれたとしたらこういう「師」でありたい、というような師の在り方を無意識に求めているということはあるのかもしれないと思う。

そしてそれにふさわしい「弟子」をもまたおそらく無意識に求めているのだが、そんなことを書くくらいだからやはり「弟子」に対する要求が高すぎるわけで、まあなかなか難しいものだなと思う。
      
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   <title>食べるという義務／猫は分けられない</title>
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   <published>2010-03-19T13:00:35Z</published>
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      <![CDATA[今日は起きた時から少し腰がおかしくて、やばい、ぎっくり腰を起こしかけているなと思った。朝は職場まで歩いてごみを捨てに行き、帰ってきていろいろやっているうちにそういう感じが強くなってきた。朝食を食べてからでかける。ちょうど整体の日だったので、よかったなあと思いつつ操法を受ける。結局、「余分に食べてますね」とのこと。確かに、プレッシャーなどで気分が重い時はそれを乗り越えようとして食べ過ぎてしまうし、最近のように気分がましになってくるといい気になって食べ過ぎてしまう。実際、若いころから「食べる」ということに気持ちのコントロールを頼り過ぎてきたから、そのつけが今出ているんだなと思う。

「どうしたらいいですかね」とつい間抜けな質問をしてしまったら、先生はしばらく考えて「ゆっくり、楽しんで食べてください」と答えた。後で考えてみたら恥ずかしい。食べ過ぎているなら食べ過ぎなければいいだけのことなのに。それでも先生の言葉や自分の状態をつらつら考えてみるに、舌や胃袋で食べるというよりも、目の前にあるものをかっ込んだり、どれくらい食べたいかということを体で感じるより目の前にあるものを「片付けよう」という意識が先に立ったり、つまり頭で食べていて口で楽しんで食べてないなあということは思った。なんというか、あるもの、出されたものは食べなければ、という強迫観念が私にはあって、だから私には冷蔵庫の中がものがいっぱい入っているというのはすごく気が重いことなのだ。「食べる」ということが「義務」になっているというのもなんだか変な話だが。

だからきっと大事なことは、「食べるという義務」から解放されることなんだと思う。そうすれば、本当に食べたいものを食べたいだけ食べられるようになるんだろうと思う。その量が、若いころほど多くないのは当然のことだ。私は、いろいろなことを自分に義務付けるのはわりと得意だが、義務付けたものを外すのはあまり得意ではない。ただ、それが自分が義務化してしまっているということに気がついてもいないよりは、気が付いているだけましであることは確かだ。「食べないと死ぬ」とか「食べないと動けない」という強迫観念は大分外れたが、「食べることは義務」という強迫観念が外せれば、もっと楽しく食べられるようになるだろうなあと思う。

母が操法を受ける待ち時間に道場にあった野口晴哉『碧厳ところどころ』（全生社、1981）をぱらぱらと読んだ。禅の本は、『無門関』『臨済録』は読んだことがあるが、『碧厳録』は長くて難しげな感じで結局読んでいない。中には「南泉斬猫」だとか有名な話がいろいろ出ていて、一度読もうと思ってはいたのだが歯が立たない感じだった。

しかし今日は野口の筆によって語られている『碧厳録』の内容に、そうか、こういうことか、と思うようなところがあり、少しわかったような気がした。ひとつひとつ、考えながら読み直してみると、いろいろ面白いかもしれないと思った。

それで、帰ってきてから昼食を食べてぼーっとした後、図書館に出かけて『碧厳録』の解説とか講述の本はないかと探してみたら、戦前刊のものがいくつかあって、閉架書庫から出してもらって3冊ほどぱらぱらと読んでみた。するとものによってはかなり詳しく解説されていて、そうかそういうことだったのかと霧が晴れてくるような思いがした。禅というのは不立文字で、文字によって伝えられないことを伝える、と言っているのだけど、結局それをこういう形で皆が解釈して文字で書き遺しているので、仏教の中で最も文字が多い宗派だという話もある。しかし肝心なことは相手のいうことが「わかる」ということであって、それは言葉で表す以前のことなのだ、ということになる。本質を見抜ける人には一言で、あるいはわずかな動作で伝わるが、鈍い人には百万言尽くしても伝わらない。そういう世界というのは、やはり少し憧れるところがある。

自分が何が書きたいのかというと、この「本質を見抜く」世界のことなのか、鈍い人はともかく理解しようという志のある人に対してある程度かみ砕いて伝える「啓蒙」の世界のことなのかということについて、いつも迷っている感じがある。商売になる需要があるのはどうしても啓蒙の世界になるのだし、私はそういうことを言ったり書いたりするのが嫌いでもないしまたある程度は得意でさえあると思うのだけど、そればっかりやっているとやはり何か違うなという気がしてくる。本質に触れるということがいかに楽しいことか、ということを、野口の本を読んでいるとよく感じる。そして今まで気がつかれなかった本質を、この人間の世界に少しでも加えられたらいいなあとも思う。

書きたいことはおとぎ話ではなく、「本当のこと」なんだと思う。別に読む人に迎合する必要はない。そう思うのだけど、書いているうちに、「わかりやすく、わかりやすく」と考えている自分もいる。いったい誰にわかりやすくなのか、ということも分からずわかりやすく書いていると、やはりどこか文章が卑しくなってくる気がする。

野口は、達磨は天才だが、趙州は俗物だ、というようなことを言っていて、天才は鈍い人間を相手にするのが耐えられないから、九年も壁に向かっていたのだ、という話は面白かった。また、趙州が「祖師西来意（達磨大師はなぜ中国にやってきたのか）」と聞かれて「庭前柏樹子（庭の柏の木だよ）」と答えた、その答えは分かりやすすぎ、格好良すぎるということなのだと思うが、趙州を（いい意味で？）俗物だ、と言っているのだなと思った。まあ私なりにこの答えを解けば、達磨が中国にやってきたのは、庭の柏の木がそこにあるように、自然なことだったのだ、ということなんだと思う。そう考えると確かに、ちょっとわかりやすすぎる気もしないではない。

でもまあ確かに、禅の言葉というのはこういう風に、ある言葉をとらえて「本質」を伝えようとするものだ。その伝えようとする意識に、「天才」は無頓着で伝わるやつに伝わればいいと思っているけれども、「俗物」はけっこう懇切丁寧に伝えようとする、ということなんだと思う。「天才」が伝える相手はおそらくは同じような「天才」か、あるいは相当努力した「秀才」であろうと思われるが、「俗物」は熱心に皆に分かるように伝えようとする。そういう意味では私は「俗物」であるなあと思う。

「天才」の伝え方のよいところは、びんびんと「わかる」者にだけに正確に伝わっていくだろうということで、劣化していくことはない。これは言葉を変えていえば、名人から名人への芸の相伝のようなものだ。名人といわれる職人は無口だというけれども、確かに言葉では伝えられないところがあるという点では、天才の気の短さと相通じるものがあるということなんだろうなと思う。

その点、「俗物」の方は一見親切に見えるけれども、中途半端にしか伝わらないものが多く、ストレスもあるし、また逆に伝えることが営業となってしまって、親切が身過ぎ世過ぎになっているという面もある。まあだからこそ「俗物」であるわけだけど。

やっぱり自分のやってることがそういう俗物的な方に傾いていたというのはどうしてもある。人に対して甘くする分、自分に対しても甘くなってしまうというのが人間の悲しさでもある。

「祖師西来意」の答えとしては、趙州の答えが決定版だとされているが、別の答えもあって、名前は忘れたが同じ質問をされて「お疲れだったでしょうにね」と答えた人がいるといい、これはこれで何かいい。つまり、考案の答えというのは一つではなく、またその答えはその人の人柄や人生が反映したものでなくてはならないんだなということが分かった。気の利いた答えを言えばいいというものではないのだ。私はどうもそういうものとして禅をとらえているところがあったなあと思う。つまり知能ゲームの一種として。だからあんまり興味がなかったのだが、自分の全身全霊を代表するような一言をのんきにぽんと出すところに禅の醍醐味があるのだなあということを思った。

あと『碧厳ところどころ』で印象に残ったのが、有名な「南泉斬猫」という話。三島の『金閣寺』のネタにもなっているが、ニュアンスが少し違う。（このことについては4年ほど前に<a href="http://honsagashi.net/life/kinkakuji.html">こちら</a>に書いている）禅寺内で二つの僧侶のグループが一匹の猫を巡って争う。争った内容は、「猫に仏性があるかないか」という内容だったが、それを「猫のとりあい」だと見る向きもある。その騒動に南泉（という偉い坊さん）がでてきて、「言い得れば助けるが、いいえなければ斬り殺す」といったが、誰も答えられなかったので斬り殺した、という話だ。

野口の解釈は、南泉が言いたかったことは「命は分けられない」ということだったのだ、と私は解釈した。命は分けられない、というのは確かにある本質を指している。猫を切って分けてしまえばもう「猫」ではない「猫の死体」である。「命は分けられない」と言ったらそんなことはないプラナリアなら分けられる、という人がいるかもしれないのでより正確にいえば「猫は分けられない」ということである。猫は分けられない。犬も分けられない。人も分けられない。「もの」は分けられる。ということは、「分けられるか否か」ということが「いのち」というものの本質なのかもしれない。饅頭は分けられる。クリスタルのシャンパングラスは分けられない。しかし考えてみたら、猫をかわいがりたいのではなく、猫を肉として食べたいのなら（中国には猫料理もあった）十分分けられる。その場合猫は「いのち」ではなく「もの」である。「仏性」が「いのち」であるとしたら、猫は「仏性」があるとも言えるし、ないとも言える。「猫は分けられないが肉は分けられる」それが本質である。

と投げ出すのが天才の（いやこれだけ縷々説明したらすでに俗臭芬々だが）常套手段だが、このときいなかった南泉の弟子のやはり偉い坊さんである趙州が帰ってきて南泉がこの話をすると、趙州は頭に沓（くつ）を載せて出て行ったという。南泉は「趙州がいれば猫を斬らずに済んだのに」と嘆息したというが、このあたり趙州の面目躍如で、スタンドプレーも甚だしい。まあ要するに本末転倒というか、ばかばかしい話だという表現なんだろう。趙州がいたら何と答えたかは想像するしかないのだが、猫を斬らせてしまった寺の僧たちは衝撃を受けただろう。受けなければ意味がないが。まあつまりは、猫は仏性有りや無しやといった空理空論の対象ではなく、生きている命なんだということで、つまりは「猫は分けられない」ということなのだ。ああ説明すればするほど自分の俗物性に自己嫌悪が起こるな。

まあそれはともかく、この話のことを考えていて、「大岡政談」の中のエピソードを思い出した。子供を巡って二人の母親（実母と養母？）が争うという話で、大岡越前守は「二人で子供の手を引っ張って取り合い、勝ったものの訴えを認める」といい、引っ張り合いをさせて、痛がる子供の声に手を離してしまった方に「子供はお前のものだ」というという話だ。これはネットでみると聖書のソロモン王の逸話からの焼き直しだということだが、「南泉斬猫」と共通するテーマだなと思った。つまり、「子供は分けられない」というのが本質なのだ。両方で引っ張るという行為は、南泉が猫をぶった切るのと同じで、馬鹿げたことである。自分のしていることの愚かさに気がついた方が「本当の母親」だということで、「この勝負に勝てばこの子は私のもの」と思い込んでいる、思いこみの虜になっている母親は得るべきものを得られない。子供はなぜかわいそうかというと、痛がっているからだが、それはつまり「子供は分けられない」ということである。子供が分けられるなら、痛がらないだろう。

つまりこれは単純に読めば「親は子供を思うもの」とか、もう少し深読みすれば同情心を持つことは自分を益する、「情けは人のためならず」とかいうことになるが、もっと深読みすれば問題の本質を理解する智慧のあるものは、智慧の足りないものに勝るということでもある。智慧といってもこの場合頭で理解するものではなく、言葉にならない本質を理解しているということである。

なんというのかな、「猫は分けられない」というのはあまりにも本質であるのだが、字にしてみるとこれだけばかばかしいテーマもないわけで、しかし人が迷いつつ生きているとそんなことも分からなくなるということでもある。大体私の書いているようなこともきっとほとんどがそういうことなので、声を大にして「猫は分けられない！」と叫んだところで「それで？」というか「猫は分けられませんが何か？」みたいな反応しか期待はできないようなことなんだろうと思う。

しかし実際のところ、最近私が面白いと思うのはほとんどそういう次元のことになってきているので、字面だけ読んでいたらほとんど「ハア？」という世界だろうなあと思う。こんなものを読んでくれる奇特な方が毎日500人もいるということは、それだけで世の中捨てたもんじゃないよなあという気もする。

図書館で『碧厳録』の解説書を読んでいるうち、くしゃみが出て咳が止まらなくなった。古い本はこういうことがある。読みたかったのだが体調に悪影響が出るのも困ったものだ。
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   <title>集中が落ちない／半年前の伏線解決／うたたね</title>
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   <published>2010-03-18T07:58:21Z</published>
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      <![CDATA[昨日。12時半まで執筆。なかなか集中できなくて困った。木曜日の朝に出す古雑誌をまとめる。モーニング、スーパージャンプ、ビックコミック、コミックゼロサム、クッキーなどなどマンガ雑誌が膨大にあって、前回の資源物回収の時もかなり出したが、今回も二束作った。まだ残っているが。昼食後、綿半に出かけて文房具などを買う。今度は逆に頭が集中したまま（集中するということに集中してしまったわけだ）解けなくなってしまったので、車を飛ばして湖畔の美術館の駐車場へ。久しぶりの友人から電話がかかってきて、共通の友人が私に相談があるということだったのでその人のところに湖畔からかけようと思ったが、けっこう風があって落ち着いて話せる感じでもなかったので、早目に職場に行って職場からかける。相談というのはわりとシンプルなことだったのだけど、こちらの集中がなんだか強まっていたので余計な話までしてしまい、話が長くなってしまった。

ソフトバンクの携帯のメールの調子がおかしく、いろいろやっても解決しないのでコールセンターにかけてみたら、話をして問い合わせているうちにちゃんと受信できるようになったのでまあいいかということにしたのだが、しかしそれまでの分は受信できなくて、なんだかどうしたらいいんだろうかと思う。普段の連絡はドコモの携帯でやっているのだけど、ソフトバンクの方はうまく使いこなせていない。

集中しているのはいいのだが、どうも集中の中心がうまく定まらず、こういうときはえてして暴走しがちなので気をつけなければいけないな。

10時まで仕事。集中していて疲れを感じない。仕事後、私の部屋にカラーボックスを一つ運び、その置く位置を考えたがうまく決まらない。書類を整理するために持ってきたのだが。あとにして夕食、入浴。自室に戻ってきてもう一度考えるがうまく決まらず、横になったらそのまま寝てしまった。何度も起きようとしたのだが体が動かず、3時ごろようやく動き出して布団を敷いて歯を磨いて寝た。6時起床。

起きてからモーニングページを簡単に書く。まだ集中が落ちなくて頭が休まっていない。昨日作った古雑誌の束を出しに行く。近所のおじさんおばさんが集まってくる。田舎の朝は早い。その足でファミリーマートまで歩く。腰が伸びなくて最初は歩くのがぎこちなかったが、ファミマまで10分歩くと大体腰は伸びる。最近、やはりあからさまに運動不足なので、時間のあるときはなるべく歩かないとと思う。モーニングを買う。帰ってきてモーニングを読み、モーニングページの続きを書いて、軽く活元運動。

朝食。朝食前に葬儀関係や相続手続き関係の書類を一通り確認し、朝食後に会社と家計のお金の動きについて母と確認の話し合いをするが、混乱するばかり。9時になって会計を手伝ってくれている人が来て、複式簿記にのっとって説明してもらい、ようやく納得。しかしその間の話が複雑で結局10時過ぎまでかかり、部屋に戻ってきて本来の執筆の時間にしようと思ったのだけどなかなかその集中が切れず、執筆の方に頭が向かわなかった。まあいつかはしなければならない話だったし、そういう意味で生産的な時間の使い方だったからいいのだけど、結局そういうことで執筆時間というのは削られてしまう。明日は午前中松本に出かける予定だし、執筆時間の確保と、精神的にバランスが取れた状態で執筆に臨む頭の状態と、両方揃えるのは結構大変だ。

カラーボックスの位置がうまく決まらないのでもう一度考えてみて、結局今までの本棚の隣に置いた。今回置いたのは従来型の（小さめの）カラーボックスで、縦におけるのはB5サイズまでだ。すでに置いてあるカラーボックスはA4までおけるタイプなので、書類はもう大体すべてA4になっているし、B5までの本を今回持ってきた方に移して、書類を古いほうのボックスにしまう。本棚やこういう整理小物を買った時にはいつもそうなのだけど、劇的にかたづいて驚く。しかし放っておけばまたすぐスペースが足りない状態になるのは目に見えているので、いらないものを適宜捨てていく姿勢を常にキープしなければと思う。

<table><tr><td><a href="http://www.amazon.co.jp/%E9%81%8B%E3%81%A8%E3%83%84%E3%82%AD%E3%81%AB%E5%A5%BD%E3%81%8B%E3%82%8C%E3%82%8B%E4%BA%BA%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8B-%E5%9B%B3%E8%A7%A3-%E9%9B%80%E9%AC%BC%E3%80%8C%E9%81%8B%E3%81%AB%E9%81%B8%E3%81%B0%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%80%8D%E6%B3%95%E5%89%8776-%E6%A1%9C%E4%BA%95-%E7%AB%A0%E4%B8%80/dp/4796675647%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4796675647"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51Gsd6FY0bL._SL160_.jpg" border="0"></a></td><td><b>運とツキに好かれる人になる 図解 雀鬼「運に選ばれる」法則76</b></br>桜井 章一</br>宝島社</br></br><a href="http://www.amazon.co.jp/%E9%81%8B%E3%81%A8%E3%83%84%E3%82%AD%E3%81%AB%E5%A5%BD%E3%81%8B%E3%82%8C%E3%82%8B%E4%BA%BA%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8B-%E5%9B%B3%E8%A7%A3-%E9%9B%80%E9%AC%BC%E3%80%8C%E9%81%8B%E3%81%AB%E9%81%B8%E3%81%B0%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%80%8D%E6%B3%95%E5%89%8776-%E6%A1%9C%E4%BA%95-%E7%AB%A0%E4%B8%80/dp/4796675647%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4796675647">このアイテムの詳細を見る</a></br></td></tr></table>

桜井章一と張栩の本は両方読了した。昨日も書いたが、桜井の本は物事に臨む姿勢に迷いがあるときに読むとすごく頭の中が整理されて自然体に近い状態で物事に臨めると思う。そういう意味で本当に役に立つ、実用的な本だ。

<table><tr><td><a href="http://www.amazon.co.jp/%E5%8B%9D%E5%88%A9%E3%81%AF10%25%E3%81%8B%E3%82%89%E7%A9%8D%E3%81%BF%E4%B8%8A%E3%81%92%E3%82%8B-%E5%BC%B5%E6%A0%A9/dp/4023304794%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4023304794"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51umMK+EBHL._SL160_.jpg" border="0"></a></td><td><b>勝利は10%から積み上げる</b></br>張栩</br>朝日新聞出版</br></br><a href="http://www.amazon.co.jp/%E5%8B%9D%E5%88%A9%E3%81%AF10%25%E3%81%8B%E3%82%89%E7%A9%8D%E3%81%BF%E4%B8%8A%E3%81%92%E3%82%8B-%E5%BC%B5%E6%A0%A9/dp/4023304794%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4023304794">このアイテムの詳細を見る</a></br></td></tr></table>

張栩の方は若手の棋士の現役の心構えに貫かれているので、読むと気合が入る。方向性がきちんと定まっている人が気合を入れなおすために読む本としては結構いいと思う。方向性が定まっていなくても、まず気合を入れなければという場合でも、いい刺激にはなる。ちょっと気合が入りすぎる気もしなくはないけれども。何しろ「純粋」な人だ。物事に打ち込むというのはどういうことかよくわかるし、帯に「日本人が忘れている闘う魂がここにある」「弱いことは恥ずかしい」とあるけれども、昔は当たり前だったのに最近よくわからなくなりつつあった「闘う」とか「強さ」ということを見直してみる上ではとても良い本だと思う。そういう意味では二冊ともとてもお勧めだ。

モーニングの感想を少し。原作・藤井哲夫・かわぐちかいじ「僕はビートルズ」第二回。昭和36年にタイムスリップ。そこで「イエスタデイ」をうたう。それはどういうことを意味するのか。次回の展開がはらはら。なかなか原作としてよくできている。「かぶく者」新九郎の伊右衛門と月之助のお岩の芸の真剣勝負。「ルシフェルの右手」連載第4回。大分面白くなってきた。「ジャイキリ」夏期キャンプ。もう何がどうでもわくわくする。アニメもやはり見てみたいな。「主に泣いています」少しずつこなれてきたけど、まだあざとい感じが抜けないなあ。「海月姫」みたいな自然さを獲得するにはどのくらいかかるか。「神の雫」ボルドー編終了。道、というテーマが出てきたぞ。「エンゼルバンク」ローリスクのように見えるハイリスク、ハイリスクのように見えるローリスク、それが見抜ければ簡単に金持ちになれる、という話はまあそうだよなと思う。それが出来れば確かにうまくいくだろう。「呼び出し一」相撲についての基礎知識の説明と、主人公がいかに相撲について知らないかの解説。まあ後者は今まで読んでれば十分わかるけど。これは連載第6回。若い作品が多いな。「シマシマ」心配な展開続く。「西遊妖猿伝」なんかギャグっぽい展開だが。「なんじゃもんじゃ」クライマックスが近いという感じだ。「Nsあおい」看護婦のキャリアアップについて。「東京怪童」ハシのマンガ・2作め。1作目と全然違うが、これも面白い。こういうのを読むと望月ミネタロウはすごいなと改めて思う。次号予告。見開きで「ピアノの森」！まあついに2次審査にカイが登場するからね。それに来週は単行本17巻も出るし、一色まことの短編集も出る。来週は「ピアノの森」が盛り上がりそうだ。期待。

***

「ジャイキリ」、大学生と練習試合。今気がついたのだが、対戦相手は笠野と達海が再会した去年の44号でみていた試合のチーム、港経済大学で、スカウトの笠野が目をつけていたおにぎり頭の中井君がいるチームだ。今号（16号）を最初読んだ時は見逃していたが、今読み直しているときに対戦相手の大学チームにおにぎり頭がいるのに気がついた。それであれっと思って44号を引っ張り出して読んでみたら同じ大学名。20週以上前に張った伏線を今解決しているのだ。こうなるともはや伏線かどうかもよくわからなくなっているのだが、「ピアノの森」だと数年前に張った伏線でまだ未解決のものもたくさんあるくらいだから、まあいいんだと思う。こういうのは単行本の一気読みをしないと普通は気がつかない。ふつうは気がつかないところにちゃんと作者は伏線を張っているともいえる。侮りがたしである。

***

部屋が片付いたので、昼食後うたた寝をしていたら、職場に出る時間ぎりぎりになってしまった。やはり部屋が片付くと気持ちがいいし、休まるようだ。

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   <title>風邪が経過した／ピアノコンチェルト／心の使い方</title>
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   <published>2010-03-17T08:43:18Z</published>
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      <![CDATA[昨日帰郷。出かける前に体温を測ったら７度６分を超えていて驚いたが、とりあえずそのまま出かける。地元のパン屋でサンドイッチと牛乳を買い、東京駅に出て丸の内丸善でSAPIOを探すが見つからず、新宿に出て構内の書店で探したらあった。この号のゴーマニズム宣言、伏見宮系旧皇族についてこれだけ詳しく、また辛辣に書いたものは今まで見たことがないので、ある意味一つの標準になるだろうと思う。特急の車内ではSAPIOのほかの記事を読み、桜井章一と張栩を読んだ。張栩は読むと元気が出る。桜井は、読むとリラックスする。特に、桜井はすごく良かった。今まで読んだ本の中でも、一番具体的にストレートに「きく」感じがする。今、具体的に何をやったらいいかということに関するヒントが満ち溢れている。

<table><tr><td><a href="http://www.amazon.co.jp/%E9%81%8B%E3%81%A8%E3%83%84%E3%82%AD%E3%81%AB%E5%A5%BD%E3%81%8B%E3%82%8C%E3%82%8B%E4%BA%BA%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8B-%E5%9B%B3%E8%A7%A3-%E9%9B%80%E9%AC%BC%E3%80%8C%E9%81%8B%E3%81%AB%E9%81%B8%E3%81%B0%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%80%8D%E6%B3%95%E5%89%8776-%E6%A1%9C%E4%BA%95-%E7%AB%A0%E4%B8%80/dp/4796675647%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4796675647"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51Gsd6FY0bL._SL160_.jpg" border="0"></a></td><td><b>運とツキに好かれる人になる 図解 雀鬼「運に選ばれる」法則76</b></br>桜井 章一</br>宝島社</br></br><a href="http://www.amazon.co.jp/%E9%81%8B%E3%81%A8%E3%83%84%E3%82%AD%E3%81%AB%E5%A5%BD%E3%81%8B%E3%82%8C%E3%82%8B%E4%BA%BA%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8B-%E5%9B%B3%E8%A7%A3-%E9%9B%80%E9%AC%BC%E3%80%8C%E9%81%8B%E3%81%AB%E9%81%B8%E3%81%B0%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%80%8D%E6%B3%95%E5%89%8776-%E6%A1%9C%E4%BA%95-%E7%AB%A0%E4%B8%80/dp/4796675647%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4796675647">このアイテムの詳細を見る</a></br></td></tr></table>

熱は車内ではずっと7度台が続いたが、実家に帰宅し、職場に出てから計ったら6度7分に下がっていて、それ以来6度台をキープしているので、ごく一時的な風邪だったのだと思う。最初は熱ぼったかったが背骨に息を通していたら下りるころに鼻水が出だし、しばらく洟をかんでいたらそれで収まった。経過に４～5時間というところか。こういう小さな風邪も、体温を測ったりして体を観察しているとよくわかる。内的な感覚だけでは私のレベルではとらえきれないことが多いので、こういう補助手段を使うのも今のところはありだよなあと思う。

それにしてももう3月17日。月日のたつのは早い。寒いと思っていた今年の冬も、もうほとんど終わりかけている。今朝は気温が零下まで下がったのでなかなか起きられなかったが、天気が良く、日差しは全く春の日差しだ。家の影がくっきりと砂地に出ている。眩しい。

***

<table><tr><td><a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B4-%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%B2%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%81-%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%BF/dp/B00005EOXL%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3DB00005EOXL"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41Y47N4ZYHL._SL160_.jpg" border="0"></a></td><td><b>ショパン・コンクール・ライヴ</b></br>アルゲリッチ(マルタ)</br>コロムビアミュージックエンタテインメント</br></br><a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B4-%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%B2%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%81-%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%BF/dp/B00005EOXL%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3DB00005EOXL">このアイテムの詳細を見る</a></br></td></tr></table>

ショパンのピアノコンチェルト1番を聞きながら活元運動をする。マルタ・アルゲリッチ、1965年のショパン・コンクール優勝の際の演奏だ。活元運動には、この曲結構いい。あくびもよく出るし、あまり難しいことを考えないで聞けるので最適だ。冬はショーソンがいい感じだったが、ショパン20歳の時の作品であるこういう若々しい曲が、春の活元運動には合っているかもしれない。

しかしそれにしても、ショパンの真骨頂といえばやはり後期に作曲されたピアノソナタなどだと思うけれども、ショパンコンクールでは決勝は毎回必ずピアノコンチェルトが課題になっている。ショパンのピアノコンチェルトは２曲しかないので、１２人の演奏者がそのどちらかを弾くことになるわけだし、コンチェルトなのでオーケストラとの合わせ方が問題になって純粋にピアノだけの問題ではなくなる。なのにあえて決勝をコンチェルトにしているのは、この二曲がショパンが、まだポーランドにいる時代に書かれた作品だからかもしれないなと思った。ショパンコンクールはポーランドの大会だし、『ピアノの森』によれば「ポーランドのショパン」を弾くことが審査基準になっているそうだから、パリに出てからの華麗な曲たちよりもポーランド時代の若々しいコンチェルトこそが決戦にふさわしいと考えられているのかもしれないと思った。

もっとも、単純に考えれば１次予選参加者８０人、２次予選参加者３０人全員がオーケストラと合わせるということになったら大変だから、決戦の１２人のみが合わせるということなのかもしれない。いずれにしても、オーケストラとのアンサンブルが重要な要素になることは間違いない。

***

今日は何か、書きたいことを書くための「心のドア」のようなものを、閉めてしまった気がするな。今日から、午前中の４時間、８時半から１２時半を「物を書く時間」に決めて書くようにしているのだけど、自分にそういう条件を与えて書くのは初めての経験なので、自分自身がうまく対応できていないなと思う。いつもブログを書くときに、「書きたいことを書きたいだけ書く」という基準で書いているからとりとめはないけれどもいくらでも書くことが出てくるのだけど、こういう風に少しでも規制を加えると書こうという気持ちはすうっと減退していく。しかし負荷のかからないことばかり書くのが自分にとっていいかというと、それはそうではない気がする。

ただ、いつも自分の心の真ん中に自分の心の重心を置き、その重心から心の全体を眺めたり、自分の外部のことをみられたりしたらいいと思う。「自分の心の真ん中に重心を置く」というのは今読んでいる桜井章一の本に書いてあることだが、とてもいい言葉だと思う。

そうだな。今はまだ読んでいる二冊の本を消化中なので、アウトプットが出来るにはまだ時間がかかる状態だということが大きいんだなと思う。

心というのはいろいろな動き方をする。そのすべてを記録することはできないけど、自分に関心があることに対する心の動きを記録しておくと、その時の自分にとっては確認になる。後から読んで、この時はこんな心の動き方をしたのかと、数年たってから読んでみるとその時の自分のことを未熟だったなあと思うのだけど、そのくらいには進歩していると言えるのだろうか。

若い人と話していると、やはり一番の違いは、心の使い方だなと思う。若い人の心の使い方は概して荒っぽいし、自分の心のコントロールの仕方がすごいことをしていると思うことが多い。昔の自分が分からなかったことを悩んでいるのを聞くと、そういうことはいずれどうにか解決がつくよ、と言ってやりたくなるのだけど、言ったところでその人の悩みが解決するわけではなく、話を聞いたり話をしたりしながら、「見守っていく」ことくらいしかしてあげられることはない。自分もそうやって見守られたりしていたんだろうなあとも思うし、それが鬱陶しく感じることもあったし、そういう目から離れてみるとまったく途方にくれたりもして、ここ数十年の間、体が成長したわけでもなく技術が飛躍的に身についたわけでもない（いや、当然いろいろなことがすこしずつ出来るようになってきてはいるけど）けれども、一番変化している、あるいは進歩しているのは心の使い方なのかもしれないと思う。

ここに書いているのもそういう心の使い方のことが多いと思うけれども、メルス・ノメルクが走っていくように、そういうものにゴールはなくて、読んでくださる方にいったいどういうことが伝えられているのか、自分でもよくわからないことも多いのだけど、自分にとってああこう考えることが自分の役に立っているとするならば、どこかの片鱗でも何か役に立つことが少しはあるのかなあと思ったりはする。
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   <title>高円寺デビュー／運とかツキとか勝負とか</title>
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   <published>2010-03-16T01:17:50Z</published>
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      <![CDATA[いつもはブログを前日のことを次の日の朝に書くことが多いのだけど、今回は15日のことを15日のうちに書いてみようと思う。今は午後8時半。

というのは、毎朝8時半から12時半までの4時間をものを書く時間と決めようと思ったのだが、火曜日は10時半から移動なので書く時間がどうしても少なくなる。だから、ブログの分を前の日のうちに書こうと、まあそういう算段である。

<table><tr><td><a href="http://www.amazon.co.jp/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%82%AB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%81%98%E3%81%8B%E3%82%93%E3%80%82-2010%E5%B9%B4%E7%89%88-SEIBIDO-MOOK-%E6%88%90%E7%BE%8E%E5%A0%82%E5%87%BA%E7%89%88%E7%B7%A8%E9%9B%86%E9%83%A8/dp/4415106854%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4415106854"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/514a87XLVEL._SL160_.jpg" border="0"></a></td><td><b>東京カフェじかん。 (2010年版) (SEIBIDO MOOK)</b></br></br>成美堂出版</br></br><a href="http://www.amazon.co.jp/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%82%AB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%81%98%E3%81%8B%E3%82%93%E3%80%82-2010%E5%B9%B4%E7%89%88-SEIBIDO-MOOK-%E6%88%90%E7%BE%8E%E5%A0%82%E5%87%BA%E7%89%88%E7%B7%A8%E9%9B%86%E9%83%A8/dp/4415106854%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4415106854">このアイテムの詳細を見る</a></br></td></tr></table>

今日は12時過ぎに家を出て、新高円寺に行くことにした。うちから東西線でまっすぐ行けば高円寺に着くけれども、それだとJR線にもかかってしまうので、どうしたものかと。結局来た電車が中野行きだったので、大手町で丸の内線に乗り換えて新高円寺まで行った。40分強。電車の中では『カフェじかん』を確認したり、桜井章一『運とツキに好かれる人になる』を読んだり。新高円寺で降りて『東京カフェじかん』に乗っていた<a href="http://www.mizutamacafe.jp/archives/2010/03/300.html" target="_blank">mizutama</a>というカフェを探す。よく分からないでうろうろしていたら、新高円寺の商店街が何だか面白いということに気づいて、あとでゆっくり歩こうと思った。21番地から22番地を一周して23番地にたどりついたら最初に歩いていたあたりでおっとっとと思うが、まあ迷ったせいで面白い店をいろいろ見られたのでよかったと思う。

mizutamaは小さなお店で、入ったときには私しか客がいなかった。ランチでキッシュを頼む。スープもついて美味しかった。ケーキは桜のシフォン。リンク先に写真があるけれども、これは美味しかった。シフォンケーキで美味しいと思ったこと、実は今までなかったのだけど。高円寺にはまた行くことがありそうなので、今度はまた別のケーキを食べて見たいと思う。ブログを見ていちばんおいしそうなのを見定めてから行けばいいなと思った。今度はオレンジのタルトかな。ご馳走様の直前にもう一人のお客さん。ご馳走様を言って外に出る。

<table><tr><td><a href="http://www.amazon.co.jp/%E7%A7%81%E3%81%AF%E8%B2%B4%E5%85%84-%E3%81%82%E3%81%AA%E3%81%9F-%E3%81%AE%E3%82%AA%E3%83%A2%E3%83%81%E3%83%A3%E3%81%AA%E3%81%AE-%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9GOLD-%E5%B2%A1%E5%B4%8E/dp/4396761368%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4396761368"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/21MZKRZ82PL._SL160_.jpg" border="0"></a></td><td><b>私は貴兄(あなた)のオモチャなの (フィールコミックスGOLD)</b></br>岡崎 京子</br>祥伝社</br></br><a href="http://www.amazon.co.jp/%E7%A7%81%E3%81%AF%E8%B2%B4%E5%85%84-%E3%81%82%E3%81%AA%E3%81%9F-%E3%81%AE%E3%82%AA%E3%83%A2%E3%83%81%E3%83%A3%E3%81%AA%E3%81%AE-%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9GOLD-%E5%B2%A1%E5%B4%8E/dp/4396761368%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4396761368">このアイテムの詳細を見る</a></br></td></tr></table>

新高円寺の商店街に戻る。何やら面白げな店がいろいろ並んでいたが、「アニマル洋子」という、古物全般という感じの店の店頭で立ち読みした（今は亡き）『イマーゴ』の特集『オウム真理教の深層』（青土社、1995）それから買おうと中に入って目に付いた岡崎京子『私は貴兄（あなた）のオモチャなの』（祥伝社、1995）を買う。何だかある本に偏りがあるなあと思いつつ、レジに行ったら天井近くの壁に野坂昭如の選挙ポスター（それも自由連合）が張ってあって驚いた。レジに人に言ったら「前にいた人が置いてった」…って分け分からん。その下に張ってあったイラストも変でおかしかった。岡崎京子、久しぶりに呼んだけどこんな絵だったっけなああと思う。内容は、まあこんな感じだったかな。でも読んでると、もう時代を感じるなあと思う。確かに、我々の世代では女の子と寝るときもこんなふうに小理屈こねてたなあという感じだったけど、今はそんなことないんじゃないだろうか。最近の若い子とそういう関係になったことないからよくわからないけど。

『オウム真理教の深層』は95年の8月号だからまさに地下鉄サリン事件をはじめ一連の事件の余韻が冷めやらず、もちろんまだ風化もしていないしその意味の謎解きも行なわれていないし確かまだサティアンも形はあるころのことで、世の中の多くの人が一体何が起こったのかまだ茫然自失の体だったころの本だ。この本を中沢新一が編集しているのだから何だかいい度胸という感じがするが、ほかに書いたり討議したりしているのが河合隼雄、荒俣宏、亀山郁夫、関曠野、山折哲雄と言った面子。今となってはへえという感じだが、この問題をめぐる当時の知性というのはそういうものだったのかもしれない。オウム真理教に入信したのは我々の世代がいちばん多いのだが、（上祐史浩は私と同年だ）それを少し上の世代である中沢新一などが冷笑する、というのがどうもこの本の構造らしい。中沢と荒俣の対談では「俺たちのような根っからの理系はこんなふうな突飛な飛躍のある宗教なんかには入らないんだよねー」という話をしていて、まあそうかねとも思う。そう、このころは、「俺はオウムに入らなかったし、入るわけないんだ!」ということが自慢になる時代だったわけだ。中沢なんか、彼の著書を経由してオウムに入った連中がたくさんいたから、なおさら火消しに躍起だったんだろう。なんかちょっと見苦しい感じがするけど、仕方ないことなのかもしれない。

高円寺方向に歩き、今度来たときは入ってみたいと思う店をいろいろみながら、「天然酵母のパン」という文句に引かれて<a href="http://www.dragone.co.jp/" target="_blank">『ドラゴーネ』</a>という店に入った。ここで二つパンを買ったが、『ルヴァン』のようなドイツ系の固いパンではなく、何だかやわらかいパンで、「天然酵母」といってもいろいろなパンがあるんだなと思った。さらにぶらぶら北に歩くと、アーケードがはじまった。アーケードも何だか面白い店が並んでいて、その中でヴィレッジヴァンガードを発見。中に入っていろいろみたが、結局「アレッポの石鹸」を買った。

<table><tr><td><a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%9D%E3%81%AE%E7%9F%B3%E9%B9%B8-%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%9D%E3%81%AE%E7%9F%B3%E9%B9%B8-%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%AB/dp/B0017586EO%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3DB0017586EO"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51LtVmaf5uL._SL160_.jpg" border="0"></a></td><td><b>アレッポの石鹸　ノーマル</b></br>アレッポの石鹸</br>株式会社　アレッポの石鹸</br></br><a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%9D%E3%81%AE%E7%9F%B3%E9%B9%B8-%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%9D%E3%81%AE%E7%9F%B3%E9%B9%B8-%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%AB/dp/B0017586EO%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3DB0017586EO">このアイテムの詳細を見る</a></br></td></tr></table>

石鹸は油から作るものだが、これはシリアでオリーブオイルを原料に手作りされているものだという。先ほど手を洗ってみたが何だかいい感じだ。どうも流行っているらしい。

高円寺駅まで歩いたが、商店街も駅に近くなるとノーマルな感じになってきて、北口の純情商店街にも行ってみたが普通だった。北口のムーミンにでて来るニョロニョロを標榜したカフェにも行ってみたが、結局中には入らなかった。南口に戻ったところで<a href="http://www.trianon.co.jp/" target="_blank">トリアノン</a>というケーキ屋の看板に引っかかって「イグレック」というケーキを食べる。何か賞を取ったものらしく確かに美味しかったがちょっと後で胃にもたれた。お店の中は年配者ばかりで、棲み分けが進んでるんだなと思った。

<table><tr><td><a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88%E4%BA%8B%E5%85%B8-1982%E5%B9%B4/dp/B000J7GV0M%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3DB000J7GV0M"><img src="" border="0" width="1"></a></td><td><b>モーツァルト事典 (1982年)</b></br></br>冬樹社</br></br><a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88%E4%BA%8B%E5%85%B8-1982%E5%B9%B4/dp/B000J7GV0M%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3DB000J7GV0M">このアイテムの詳細を見る</a></br></td></tr></table>

<table><tr><td><a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%82%A4%E7%A0%94%E7%A9%B6-1956%E5%B9%B4-%E5%86%85%E6%9D%91-%E7%9B%B4%E4%B9%9F/dp/B000JAZQO6%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3DB000JAZQO6"><img src="" border="0" width="1"></a></td><td><b>ドラマトゥルギイ研究 (1956年)</b></br>内村 直也</br>白水社</br></br><a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%82%A4%E7%A0%94%E7%A9%B6-1956%E5%B9%B4-%E5%86%85%E6%9D%91-%E7%9B%B4%E4%B9%9F/dp/B000JAZQO6%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3DB000JAZQO6">このアイテムの詳細を見る</a></br></td></tr></table>

また商店街に戻り、店頭を冷やかしながら歩く。二合炊きの炊飯用の土鍋がいろいろあってほしいなと思ったが、持ち歩くのも大変なのでまたにすることに。といいつつ、古本屋でまた三冊も買った。仕事の本と、『モーツァルト事典』（冬樹社、1982）、内村直也『ドラマトゥルギイ研究』（白水社、1956）。安かったからだが、や少なかったら買わなかったけど、面白そうではある。新高円寺まで歩いて、後は青梅街道を西へ。この辺に住んだら楽しいかなと思いつつ歩いていたが、ところどころに暴走族の落書きがあったり、ゴミステーションがゴミ出しの日が守られずにゴミが散乱していたりして、あんまり住みやすくもないのかもと思いなおす。古道具屋など、面白いものがある店はいろいろあったのだけど。歩いて『書原』に出た。

<table><tr><td><a href="http://www.amazon.co.jp/%E5%8B%9D%E5%88%A9%E3%81%AF10%25%E3%81%8B%E3%82%89%E7%A9%8D%E3%81%BF%E4%B8%8A%E3%81%92%E3%82%8B-%E5%BC%B5%E6%A0%A9/dp/4023304794%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4023304794"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51umMK+EBHL._SL160_.jpg" border="0"></a></td><td><b>勝利は10%から積み上げる</b></br>張栩</br>朝日新聞出版</br></br><a href="http://www.amazon.co.jp/%E5%8B%9D%E5%88%A9%E3%81%AF10%25%E3%81%8B%E3%82%89%E7%A9%8D%E3%81%BF%E4%B8%8A%E3%81%92%E3%82%8B-%E5%BC%B5%E6%A0%A9/dp/4023304794%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4023304794">このアイテムの詳細を見る</a></br></td></tr></table>

『書原』の本店は久しぶり。中をくまなく物色。面白いと思った本はいろいろあったが、買ったのは張栩『勝利は10％から積み上げる』（朝日新聞出版、2010）。あと小谷野敦編集の『日本の翻訳家101』も面白そうだったが、これはまた買う機会もあるだろうと思って今日はやめた。張栩は台湾出身の碁打ちで今とても強い人だが、その勝負論はきっと面白いだろうと思った。中国や韓国の若手の強さは要するにすべて覚えているということにあるらしい。日本の囲碁・将棋は「自分で考える」ということを重視していて、そこにはそのよさがあるが、スポーツとして打っている中韓両国を破るのはそれなりに作戦を立てて訓練する必要がありそうだという感じだった。

阿佐ヶ谷のアーケードを歩いたが、普通だった。でも<a href="http://www.shizensyoku-ff.com/" target="_blank">自然食品の店F&F</a>というのを見つけたのでそこでぶり大根と桜のどら焼を買った。いやあ、自然食と称している店って杉並にはいくらでもあるんだなと思う。しかしどら焼の原材料を見ると水あめとか書いてあるし、一体どこまで「自然」何だかよく分からん。こういうのってピンからキリまであるんだろうなあ。としみじみ思う。

阿佐ヶ谷駅から東西線直通に乗って帰る。南砂町まで30分強。案外近い、とも言える。車内ではまた桜井章一を読んだ。読めば読むほど面白くなっていく。

***

今朝はゆっくり時間があると期待していたが、全然なかった。家事的に次々にやることが出てきてPCの前に座れたのは9時40分過ぎ。少しオーバーヒート気味らしく、突然熱が上がった。こういうことがあるんだなとびっくり。自分の体にしろ何にしろ、ちゃんと観察してみると普段は気がつかないことがいろいろ出てくる。自分のことって知っているようで本当に知らないんだなと思う。

張栩『勝利は10％から積み上げる』（朝日新聞出版、2010）が面白い。80年台湾生まれの現在日本棋院第一人者。私はこういう勝負の世界に生きる人たちが書いたものは読むのが好きなのだけど、羽生善治が書くものより分かりやすく、私にとって役に立つ感じがした。将棋と碁では勝負の仕方が違う。自分がしている勝負が、将棋よりは碁の方に近いのだなと思う。将棋は相手の王将を取ることがゲームの目的だが、碁は相手より広い陣地を獲得することが目的で、こちらの方が多分分かりやすい。子供のころ父から習ったのも碁であって、将棋は駒の動かし方とか基本的なことはともかく、誰かから教わったということはない。将棋は最終的に一点集中になるが、囲碁は最後まで大局を見つつ細かいところで陣地線を繰り広げる。やはり将棋の方が戦闘的で、碁の方が戦略的という性質はあるのだろうと思う。最近は将棋の方にスターが多いのでしばらく将棋の方に関心があったが、この本を読むと碁にも再び関心が湧く。

<table><tr><td><a href="http://www.amazon.co.jp/%E9%81%8B%E3%81%A8%E3%83%84%E3%82%AD%E3%81%AB%E5%A5%BD%E3%81%8B%E3%82%8C%E3%82%8B%E4%BA%BA%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8B-%E5%9B%B3%E8%A7%A3-%E9%9B%80%E9%AC%BC%E3%80%8C%E9%81%8B%E3%81%AB%E9%81%B8%E3%81%B0%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%80%8D%E6%B3%95%E5%89%8776-%E6%A1%9C%E4%BA%95-%E7%AB%A0%E4%B8%80/dp/4796675647%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4796675647"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51Gsd6FY0bL._SL160_.jpg" border="0"></a></td><td><b>運とツキに好かれる人になる 図解 雀鬼「運に選ばれる」法則76</b></br>桜井 章一</br>宝島社</br></br><a href="http://www.amazon.co.jp/%E9%81%8B%E3%81%A8%E3%83%84%E3%82%AD%E3%81%AB%E5%A5%BD%E3%81%8B%E3%82%8C%E3%82%8B%E4%BA%BA%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8B-%E5%9B%B3%E8%A7%A3-%E9%9B%80%E9%AC%BC%E3%80%8C%E9%81%8B%E3%81%AB%E9%81%B8%E3%81%B0%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%80%8D%E6%B3%95%E5%89%8776-%E6%A1%9C%E4%BA%95-%E7%AB%A0%E4%B8%80/dp/4796675647%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4796675647">このアイテムの詳細を見る</a></br></td></tr></table>

桜井章一『運とツキに好かれる人になる』（宝島社、2010）105/173ページまで読んだが、この本は今までの桜井の本の中でいちばん実戦的というか、生きている上で、あるいは仕事をしている上で、ないし「勝負」の場面で生じるさまざまな問題を、上手く切り分けてそれぞれの対応の考え方を示していて、自分なりにどう考えたらいいかがすごくやりやすくなっている。図も、深層心理に訴えるという点で実はかなり効果的だと思った。この本は上手く使いこなしたいと思う。

今日は文章に統一性がないが、切り張り的に。なんていうか、やってることが切り張り的なんだろうな。

***

『東京カフェじかん』、もう2011年度版が出てる。2010年度版は12軒行ったけど、11年度版とどのくらい重なっているのか。時間があるときにみよう。
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   <title>プロダクト／人を育てる／東村アキコ『海月姫』／皇統問題と旧皇族</title>
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   <published>2010-03-15T01:24:43Z</published>
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      <![CDATA[昨日はブログを書かなかった。書けなかったともいえるし、書かなかったともいえる。書く時間はないことはなかった。書こうと思ったら何か書けないことはなかったとは思うけれども、書かなかった。昨日は何か自分の中の潮がいちばん引いている感じのときで、自分の中からまた大きな潮が動き出すのを見届けたいと思っていた感じがある。敢えてここで手軽な動きをしてその動きを見失ったり壊したりしないようにと思って、自分の動きを最小限にしていた。こういうときはつまらないものに引っかかりやすいので、気をつけるようにしないといけないと思う。変なものを自分の内側に取り込んでしまうと、またそれを吐き出す機会が来るまでそれに取り付かれたりするのも面倒くさい。

疲れが出ていたということもあって、夜は知らないうちに寝てしまった。8時ごろだったと思う。1時過ぎに目が覚めて、それから着替えたり入浴したりして寝た。3時過ぎにはなっていた。朝起きたら7時前で、二回には分けたが久しぶりに十分に寝たという感じだった。

昔の友達に会うことを考えて、何だか気が進まない感じがして、それはなぜだろうと考えて見ると、最近何をしているのかという話になったときに、最近こういうことをしている、ということをはっきりとプロダクトとして見せられないからだな、ということに思い当たった。昨夜、なんとなく見ていた海外ネットワークで、イラクの総選挙を取り上げていたが、その映像に出てきた庭師のおじさんが、自分の仕事に誇りを持ち、また社会的にも評価されている感じの印象を受け（全く放送されていた内容とは関係ないことなのだけど）、それは庭師のおじさんがプロダクトとしての庭を見せることが出来る、「これが私の作った庭じゃ!」と言えることにあるんだろうなと思ったからだった。

考えてみたら仕事というのは、みなプロダクトを作るためのものだ。蕎麦屋、パン屋、そういう「作る系」の仕事はもとより、会計士だったら会計報告書をつくり、弁護士だったら取り扱ったケースで成功した事例をたくさん持っている。政治家が自分の実績を誇るのをあまり面白い気持ちで見たことはないけれども、彼らにとって「実績」というのはそういうことでしかない、具体的にどんなふうに世の中をよくしたか、ほとんどのものは賛否両論に分かれることだろうけど、とりあえずはその政治的信念に従ってこれだけのことを実現したと訴えるしかないんだなと思う。

教育というのは、プロダクトは「人を育てる」ということになる。孔子とか、教育者としての側面がかなり強いから、そのプロダクトとして多くの個性的な弟子が『論語』などにも出てくる。ただ、「弟子」というのは他のプロダクトと違い人間なので、教育というのはどこか仕事として中途半端な感じがする。大学の教員ならば自分の研究をプロダクトとして示すことが出来るけれども、それ以下の教員は結局は未完成品というか、心が必ずしも伝わっているとは限らない、もはや「弟子」といえるような状態ではない、つまりは師と弟子という感じでなく、たまたまその人間の前で喋り、たまたまその人間の話を聞いただけの、「他人」に少し関わり、また離れていく、そういう中途半端な仕事になっている気がする。

「熱心」な教員が、イベントに参加したり新しいイベントを作り出したりすることをやりたがるのも、まあ分かる気がする。イベントは形として結集しやすい、プロダクトという形として残りやすいものだからだ。身分保障された教員は、必ずしもそういうイベントを作り出さずとも、自分のペースで生徒にじっくり関わっていけばいいと考えることが多いのでイベントを嫌うけれども、形を残すことを好む人、その瞬間での爆発が欲しい人、また「学校」そのものの世間的な評価を上げるということに主眼を置く人はイベントの方に走りがちだし、それはある意味無理もないところもあると思う。学校も学校同士の競争があるわけだし、安閑とはしていられない。人は結局プロダクトにより評価するわけだから、たとえば「東大合格何十人」というはっきりしたプロダクトがあれば（まあ確かにあんまりそういうもので評価されたくないという気持ちは最近私もわかるのだけど）別だが、そうでなければ学校の人気は下がってしまい、下がってしまうと教育内容も維持できないというジレンマがある。

ただ問題は、教育という面で本当にそれがやるべきことなのかということであって、合格者数競争もイベント競争も、甲子園出場争いもそうだが、やっぱり何か教育というものの本質から外れているところがある気がする。教育って実際は地味なところが主で、厳しいところもあり、また例外的に派手なところも晴れがましいところもあるけれども、大事な部分というのは人には見えない部分が大きい。

・・・何でこんなことを書いているんだろうとはっと我に帰る。プロダクト、ということについて書いてたんだな。教育というものはその点において難しいというか、分かりにくいというか、とらえどころのない仕事だということを書こうと思ったのか。学校教師をしていたときは、卒業生を出して、これで一区切りと思っても、それがプロダクトとしてどれだけのものを送り出せたかということは、何だか虚しいことが多くて、まあそれが続けていけなかった理由だったなあと思う。

学校教育というのは結局、生徒は先生を選べないし、先生は生徒を選べない。私立ならまだましかと思うけれども、最近は「この学校だから」進学したいというよりも、マニュアル化して「このへんのグレードならいい」、みたいな雑な選び方になっているようで、愛子内親王殿下の不登校問題で図らずもクローズアップされたように、学習院ですら学級崩壊が起こり、モンスターペアレントの跳梁が起こったりしているようだ。学校教育を「サービス」と勘違いしている親が多いということが時代の趨勢としてあるのと、そうではないと親を説得する十分な論理を学校側が持っていないという問題もある。

しかし本来の教育というのは孔子とその弟子のような関係のものだと思うし、「我より童蒙を求めるにはあらず、童蒙我を求む」という、親や子どもが自らの成長を求めて師たるひとを選び、教えを乞うということがあってこそ、その力も伸びるというものであるはずだ。そういう、「育ちたい、学習したい、伸びたい」という本来の欲求を思う存分伸ばしてやるのが教育の本旨だろう。そしてその学び舎を巣立つときに、これだけの弟子が育ったと感慨無量の思いに浸るのが本来の教育のプロダクトなのだと思う。

まあ理想論だが、理想を語っておかないと現状がどこがおかしいのかの批判は出来ないので、とりあえず自分の理想のようなことを描いておこうと思う。

まあそれはそれとして、はっきりとしたプロダクトを作り出していくことが仕事としてやりがいのあることには違いない。補助的な、雑用的な仕事だとそういうものを味わいにくくなるということは確かにある。どういうものが自分のプロダクトなのか、というとらえ方もまた人それぞれだろう。

私がプロダクトとして作り出していくべきものは何なのか、ということを考えてみる。人間とはどういうものなのか、人間とは何なのか、ということを描いた作品ということになるだろうか。それも、人間とはこういう風でありたいなあとか、こういうものであるといいなあというものを描いたもの、あるいはそうなるための方法を考えたもの、ということになるかなと思う。自分が読んでいて楽しいのはそういうものだ。人はいろいろなあり方を理想として持ち、それを描いてきたけれども、そのすべてにもちろん共感できるわけではないし、むかし共感していたけど今ではそうは思わないというものや、いいたいことは分かるけど近づく気がしないもの、すごく理不尽な感じはするのについそちらに引き寄せられてしまうものなど、いろいろなあり方がある。

まあブログでも毎日そんなことも含めてああでもない、こうでもない、あるいはああかもしれない、こうかもしれないと書いているけれども、プロダクトとしてはっきりした形を取るためには、もう少しテーマを明確化し、それを広げ、また掘り下げておく必要があるなあと思う。電子書籍でも何でも、そういうプロダクトを順々に作り出していくことが、自分にとっての生きている証というか、社会に対してあるまとまったインパクトを残し得る、社会を少しでも自分のよいと思う方向に動かすことになったらいいなと思う。

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<table><tr><td><a href="http://www.amazon.co.jp/%E6%B5%B7%E6%9C%88%E5%A7%AB%EF%BC%884%EF%BC%89-KISS%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E6%9D%B1%E6%9D%91-%E3%82%A2%E3%82%AD%E3%82%B3/dp/406340790X%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D406340790X"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51+1jGQ2oTL._SL160_.jpg" border="0"></a></td><td><b>海月姫（4） (KISSコミックス)</b></br>東村 アキコ</br>講談社</br></br><a href="http://www.amazon.co.jp/%E6%B5%B7%E6%9C%88%E5%A7%AB%EF%BC%884%EF%BC%89-KISS%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E6%9D%B1%E6%9D%91-%E3%82%A2%E3%82%AD%E3%82%B3/dp/406340790X%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D406340790X">このアイテムの詳細を見る</a></br></td></tr></table>

一昨日夜帰京。帰りに地元の文教堂で東村アキコ『海月姫』4巻を買う。いくつか読んだ中では、私は東村アキコはこの作品がいちばん面白いと思う。東村はエッセイ性や自伝性の強い作品が多く、虚実皮膜のようなところにその個性があるようにも思われるのだが、もともとはこうした完全なフィクションの方にその才能の大元はあるのではないかと思う。この巻では天水館の立ち退き問題は進まず、月海のクラゲ愛の爆発によりすごいデザインのドレスが作り出されていく展開に、蔵之介が自分の月海に対する思いを整理していく心の動き（大笑い）が加わっていくなか、あまあずと蔵之介パパ（政治家）が遭遇したり、敵？味方？入り乱れてもう何がどうなっていくのやらという感じになっていて、カオスになってきた。ちょっとごちゃごちゃしすぎてきた感じはあるが、先が楽しみな展開ではある。

昨日は午前中に西村佳哲『自分の仕事を作る』にでていた永福町の黒森庵に出掛けようと思っていたのだが、ネットで調べて休業中だということを知り、気勢がそがれて結局団地のOKストアで昼食の買い物をして帰って食べた。家の前の道路が舗装小路で通行止めになっていて遠回りさせられたことも何だか気勢をそがれた。自分の中に在るものが満ちてくるまであまり動かないようにするという方針にしていたので、昨日はあまり動かないようにし、夕方に駅まで出かけたが結局街に出るのはやめて、文教堂でSAPIOを立ち読みし、桜井章一『運とツキに好かれる人になる』（宝島社、2010）を買って帰る。

SAPIOでは小林よしのりが『ゴーマニズム宣言』で「伏見宮系旧皇族」について書いていたが、これはこの問題について一般誌で書かれた中では今まででいちばん本格的な論究ではないかと思った。伏見宮系旧皇族の存在については私も以前から関心を持っていて、それについては研究や論考を見るたびに目を通してはいた。そんなに網を張って読んでいたわけではないけれども。最近になって、皇統問題がクローズアップされてくる中、現皇統に属する存命の男子が数少なくなってきたことで、旧皇族（厳密にはその子孫）の皇籍復帰を主張する声が高まってきている。小林よしのりは女子、あるいは女系でも現皇統から将来の天皇を出していくべきという立場に立って、伏見宮系旧皇族子孫の皇籍復帰に強い疑問を呈している。

最大の論点は伏見宮家と現皇統の分離が室町時代に遡ることにある。600年前だ。南北朝の合一時の後小松天皇（一休禅師の父とされる）の子、称光天皇が崩御した際、観応の擾乱で皇位を追われた崇光天皇の子孫である伏見宮家から後花園天皇が即位し、その弟の貞常親王が伏見宮家を継いだが、いわゆる伏見宮系旧皇族はその子孫に当たる。室町・戦国・織豊時代と宮家を受け継ぎ、江戸時代には四親王家としてその地位を継承したが、新たに創設された宮家に比べて皇統からの距離が問題になったのだろう、その後皇位を継承したケースはない。その後は他の親王家だけでなく、五摂家・清華家にも皇籍から下った男子が継承するケースが何度もあった（たとえば近衛文麿の近衛家は後陽成天皇の皇子の家系、文麿の長男がシベリアで抑留死したため近衛家現当主は細川家から継いでいるが）ことも小林は指摘していて、男系男子に限った「血の濃さ」で言っても伏見宮系よりも近いところがある、と指摘している。

このへんの論点、私も以前はやはり男系男子が望ましいだろうし、そうなれば旧伏見宮系の皇籍復帰しか解決策はないだろうなと思っていたのだけど、小林の議論を読んでいるうちに女帝や女系についてもその議論に一定の説得力を感じるようになってきた部分がある。まあこのあたりについてはいろいろおもうところもあるが、自分が関与していくべき問題であるとも思えないのでこういう議論があった、ということを書き留めるに止めておこうと思う。立ち読みで済まそうと思ったが、今号のSAPIOはあとで買おうと思う。

<table><tr><td><a href="http://www.amazon.co.jp/%E9%81%8B%E3%81%A8%E3%83%84%E3%82%AD%E3%81%AB%E5%A5%BD%E3%81%8B%E3%82%8C%E3%82%8B%E4%BA%BA%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8B-%E5%9B%B3%E8%A7%A3-%E9%9B%80%E9%AC%BC%E3%80%8C%E9%81%8B%E3%81%AB%E9%81%B8%E3%81%B0%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%80%8D%E6%B3%95%E5%89%8776-%E6%A1%9C%E4%BA%95-%E7%AB%A0%E4%B8%80/dp/4796675647%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4796675647"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51Gsd6FY0bL._SL160_.jpg" border="0"></a></td><td><b>運とツキに好かれる人になる 図解 雀鬼「運に選ばれる」法則76</b></br>桜井 章一</br>宝島社</br></br><a href="http://www.amazon.co.jp/%E9%81%8B%E3%81%A8%E3%83%84%E3%82%AD%E3%81%AB%E5%A5%BD%E3%81%8B%E3%82%8C%E3%82%8B%E4%BA%BA%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8B-%E5%9B%B3%E8%A7%A3-%E9%9B%80%E9%AC%BC%E3%80%8C%E9%81%8B%E3%81%AB%E9%81%B8%E3%81%B0%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%80%8D%E6%B3%95%E5%89%8776-%E6%A1%9C%E4%BA%95-%E7%AB%A0%E4%B8%80/dp/4796675647%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4796675647">このアイテムの詳細を見る</a></br></td></tr></table>

桜井章一の本はまだちゃんと読んでおらず、ぱらぱらと見たくらいなのだけど、横書きで左開き、左のページに文章、右のページに解説イラストという今までにないつくり。徹底的にハウツー本化してみた試みだといえる。確かに視覚的イメージに訴えたほうが文字だけだと伝わりにくいものも伝わるかもしれないなとは思う。、ただ桜井の場合、言葉の説得力がかなり重要なメッセージだとも思うので、こういう試みが成功しているのかどうかは読んでみないと分からないなと思う。

うーん今日のブログ、たくさん書いたけど面白いことが書けたかどうかは自信がない。]]>
      
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   <title>まともであること／高貴なる者の義務</title>
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   <published>2010-03-13T06:25:40Z</published>
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      昨日。10時まで仕事し、帰宅して夕食、入浴、就寝。体温は一日ずっと36度台。副鼻腔系は安定はしてきているけどこれでいい、という感じにはなかなかならない。泌尿器系に移行しそうな感じが少しあったけど、今のところそういうこともなく。鼻に関しては中学生のころから問題があるし、この風邪で一気にそれが治ればいいけど少なくとも少しかかりそう。考えてみたら、私のいろいろな持病的なものというのは全部中学生のころ以来、というものばかりだ。中学生のころにだいぶ悩んでいたせいか、体の中のいろいろなところにいろいろなものが出た。登校拒否的になっていたのは自律神経失調症という診断をもらったけれども、今考えてみたら全部体がしなやかでなく、硬くなっていたために起こった症状だなと思う。それだけあのころは、毎日強度のプレッシャーや沈んだ思い、やりきれないものを抱えながら生きてたんだなと思う。そういうものが少しでも蘇る気配がすると、体の中のいろいろなところがむかしのようにおかしくなる。きちんと治しきっていないままになっているところがたくさんあるということなんだろう。風邪を引くことでそういうものが調整されていくことを望んでいるのだけど、まあ全部が全部はどうなんだろうか。しっかり活元運動もやっていかないとなあと思う。

昨日も今日も、新しいものは読めず。キューブラー・ロスも、読み直してるキャメロンも、『葬送』も、ほとんど読んでいない。繰り返し読んでいるのは『ランドリオール』と、久しぶりに読んでいる『ピアノの森』。『ピアノの森』はいつ読んでもたましいに灯がともるような感じがするんだけど、逆にあんまり安売りというか毎日読むものではないというところもあって、最近は少し読まなかったのだけど、こういうときには道を間違えないためには読むといいなと思う。「ピアノは俺のいのちなんだ」というセリフとか、こんないわばベタなセリフでこれだけ感動させるのは、それだけ物語がしっかりできているし、作者の中にぶれないものがあるからだと思う。いつも感動させられる。

私が私であることってどういうことなんだろう、というようなことを考えていたのだが、私が私であることとは、「まとも」であることだ、という結論が出た。

「まとも」であるということは、私にとって信念でもあり、強迫観念でもある、なと思う。それが自分を制限するものであっては面白くない。「まとも」であるということは、私を生かし、私を自由にしてくれるものであると同時に、私を抑え、私を苦しめるものでもある。正気であろうとすること、ノーマルな人間であることを望むこと、言葉にしてみればいろいろな表現になるが、「まとも」とか「正気」という言葉が一番しっくり来るような気がする。

「狂」というものに、私は憧れるところがあるが、私自身が「狂」になることは、どうも出来ない。それが結局自分を生かすことにはつながらない、と感じる。「狂」になれる人は羨ましい。自分がそれをやろうとすると、まわりもなぎ倒し、全てを崩壊させるのに自分は全然満足できていないし、不自然だし、という感じになる。「無」になることはできても、「狂」になることは出来ない、というたちの人間なんだなと思うし、だからこそ「狂」には憧れるのだけど、人には向き不向きというものがある。私の場合は、打ち込めば打ち込むほど正気になるタイプだ。まあ「正気」という名の「狂」だ、ということはいえないことはないかもしれないけど。

からだが野口整体や自然食を求めるのは、私のからだがそうした考え方、そうした食べ物が「まとも」であると判定しているからで、「体質」からしてまともなんだなと思う。「まとも」であるかどうかというのは社会的な常識や習慣によって決まることではない。結局自分自身の感覚のみが私にとっては絶対的な判定者なのだ。

そうかんがえてみると、結局自分の今までのさまざまな蹉跌も、結局は自分が下した判断によるものだということがわかって来る。高校教育の現場を止めたのも、やはりどうしてもまともでないものがそこにあり、それに耐えられないということだったのは明らかだし、ある集団にいても極端主義に走りそうな傾向が出て来るとやはりそこにはいられないなという気がしてくる。人間関係も、まあ相手が私の「まともさ」に強い窮屈さを感じたり、自分が相手に対してそういう部分での違いを感じたりすると、続けていけなくなりがちなのだ。

相手に窮屈さを感じさせるようなまともさであるのは、私の至らなさであって、本来のまともさというのはそういうものではなく、もっと包容力のあるものだと思うけど、私も迷いがあってわりとすぐテンパってしまい、あるべき意味でのまともさを失ってしまいがちで、そうなると変に教条主義的になってしまう傾向があったから、まあイヤになられても仕方なかったなと思う。

「まとも」であるために重要なのは、「柔軟さ」だと思う。野口整体の考えでいっても、弛む時に弛み、引締るときに引締まるからだが「いいからだ」で、そういう身体には柔軟さがあり、こわばりが少ない。身体がこわばってくると弛むべきときに弛まないので引締まるべきときにも力が入らず、いつもくたびれた感じが抜けない、ということになる。精神もそういう柔軟さがいるわけだ。

私の場合は、まともな立ち位置をまず、しっかりと定める必要がある、と思う。まともであることで、私は世界を曇りない眼で見ることが出来る、と思う。まともであることは不自由なことである気がしてしまうけれどもそうではなく、本当は無限に自由なことなんだということを示さないといけないと思う。

まとも＝Sane、正気。四柱推命だと私は「正官」というのになるが、多分この言葉と正気であることとは関係があると思う。正官は基本的に世の中の要石の役割をすべき星回りなのだけど、そういう人間が真ん中に座っているだけで自然と世の中が治まるという、そういう幸福な時代では現代はない。ただどんな活動をするにしても、「まとも」であること、つまり「自分が自分であること」を離れては本末転倒だということを忘れないようにしないといけない。まあ大体そういうことに関しては神経質すぎるほどなのであんまり心配はないが。

漢和辞典で調べると、「官」とは「師」の家だ。白川静の字典でも調べてみたいが。そうなると、正官とは「正しき師の家」ということになる。また、「官」という字は感覚器官の働きやつかさどる、のっとるという動詞的な意味もある。「官能」の官でもある。官能とは「快さを受け取る働き」だそうだが、アートや音楽に感動できること自体が正しくそうした官能が働いていることを意味しているのだろう。もちろんそれ以外の肉体的な快さについてもだが。

正官は、別の読み方をすれば「官を正す」ということにもなる。政治にも関心があるのは結局そういうことなんだろうと思う。

しかし国家や世の中を正す前に、まず自分を正さないとと思う。自分の身体を正し、自分の心を正し、自分の頭や行いを正す。正すという働きは、理論的なことというより、応用的／実践的なことだろうと思う。仏教で四諦八正道というが、四つの真理を抑えた上で正しい瞑想／正しい思考等八つの正しい道を実践するのが仏教の修行だ。

何が自分にとっての真理なのか、まだ全部わかっているわけではないが、少しずつ見えてきてはいる。分ってきたところから少しずつ実行していけばいいのだと思う。

***

というようなことを考えていて思った。西洋近代文明というのは、「ノブレスオブリッジ」が作った部分が大きいと思う。「高貴なるものの義務」だ。それが拡大すると「白人の重荷」になる。傲慢になって主客転倒すると「マニュフェスト・デスティニー」になる。しかしそうした考え方はもう限界にきているのではないかと思う。シーシェパードやグリンピースの活動はその暴力面が問題になっているけれども、その根本になる彼らの傲慢さが西洋的な「ノブレスオブリッジ」になるのではないかと思った。それはエリート主義といってもいい。EUの官僚が一般にあまり評判がよくないのはそうした面であるようだし、また国連や国際機関、あるいは国際会議でも米英や「先進国」が会議を仕切ろうとするところは世界を善導しようという彼らの義務意識を強く感じる。

言葉を変えて言えば、彼らの思考には貴族性、寡頭制が本質的に染み付いているといっていいのだと思う。そういう意味で、西洋近代文明の本質は民主制ではなく寡頭制なのではないかという気がする。

アメリカには大衆資本主義を導入することでそうしたものを乗り越えようとするところがあるが、それもまた盲目の龍がわけもわからず暴れているような恐さがある。

賢者が世界を指導するという東洋的・あるいはプラトン的な行きかたはどうかと思えば、賢者による独裁に傾く危険が常にある。

政治には君主制・貴族制・民主制の三つがあり、それぞれ堕落すると僭主（独裁）政治、寡頭政治、衆愚政治に陥るという言葉があったが、それをうまく混合したローマが生き残ったというのだけど、どうしたらいいかはともかく、ヨーロッパの伝統の寡頭制的な性質が日本との不協和音を生んでいるということは確かだなと思ったのだった。メモ。

      
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   <title>蛹（さなぎ）の時間／五つの自然な感情―恐怖、罪悪感、怒り、嫉妬、愛―</title>
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   <published>2010-03-12T10:48:31Z</published>
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      <![CDATA[パソコンをNECのLaVie LL150/Wに変えてから、普段は秀丸エディタで書いているのだけど、どうも秀丸エディタが暴走して変なことをしでかすことが多いので、今日はメモ帳で書いてみているのだけど、これもまた落ちつかない。文字の大きさとか字間とかを生理的にちょうど良くするのが少し面倒なことと、行番号がないとか大したことではないのだけどそういうことが気になる。しかし、秀丸に比べると反応速度が速く、変な打ち間違いは少なくなるようだ。しばらくメモ帳で書くことにしてみようか。

今朝は体温はかなり安定してきて36度台の後半で推移している。でもなんだか気持がもう一つ晴れない感じが続いていて、朝からろくに何もしていない。午前中は貴重な時間だったのだけど、横になって体を休めるだけで終わってしまった。ある種の潔癖症というか、自分が本当に納得したもの以外受け入れないという状態がまた来ている感じがする。

こういうときは弱音を吐きやすい状態になっているのだけど、そういう弱音はまあ言えば暇人の寝言であって、そんな御託を並べるくらいなら布団をひっかぶって寝ていたほうがましだ。そういう意味でいえば、今は「蛹（さなぎ）の時間」なんだなと思う。

・・・メモ帳でも暴走して変なことが起きた。どこら辺に問題があるのかよくわからないが、問題を追及する気力が足りない。とりあえずもう少し元気な時にやろう。

自分が注文する側の人間なのか、注文される側の人間なのか、つまりスタッフなのかライン、つまり現場の人間なのか、ということを考えると、私は現場の人間だよなあと思う。現実の立場がどうこうというのでなく、人間の在り方というものが。一つ一つ、自分の仕事や人の仕事によってその全体が前に進んでいくのを見ているのが好きだ。芝居をやっているときも舞台監督的な役回りをすることが多かったが、それが一番やっていて楽しい感じがする。自分の手で何かが出来る、自分が何かを回している、という感じが好きなんだと思う。そういう意味では、実際には私は車の運転というものはしていて楽しいし、たぶん楽しいからこそ体がそれを拒否していた期間が長かったんだろうと思う。一度車に乗らなくなってから再び乗るようになるまで、10年くらいかかった。

人のまねをするとかにあまり抵抗がないのは、一つのコースが定められていて、それを実行すること自体が楽しい、ということでもある。ゲームなども、単純なルールの方が好きだ。

まだまだ自分を知らなければならないと思う。体の好みというものは大分はっきりしてきたけれども、心の好みというものはまだはっきりさせていかなければならないところが多い。物事のやり方というものが、現場監督的にスケジュールを管理しつつやるということが得意だということは分かっていたのだけど、そのほかにもまだまだ自覚していなかったり忘れたりしているけどはっきりした好みはたくさんあるはずだ。

同様に、頭の働き方にも好みがある。昔は理屈だけで推せる数学は好きでも「実際にこういう風に使われている」ということを積極的に受け入れていかなければならない英語の学習は苦手だった。最近はその呼吸がだいぶ分かってきた。もともと国語は得意だったのだから、英語だって結局、まず理論を習得した方がやはり勉強しやすいし、そのうえで日本語と同じように「習慣」というものが存在するのだからそれをよりきめ細かに覚えていくことで、言語という習慣的な体系をマスターすることが出来るのだということが分かってきた。だから好みだけではなく、その働きの柔軟性も取り戻さなければならないけど、心や頭の働き方の癖というか好みのようなものを自分で把握しておいた方が気持ちよく仕事できることもまた確かなことだ。

今日は早い時間から新規の顧客の対応があるので早めに出かけなければならない。ので、ブログはこの辺で。

<table><tr><td><a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E6%AD%BB%E3%81%AC%E7%9E%AC%E9%96%93%E3%80%8D%E3%81%A8%E6%AD%BB%E5%BE%8C%E3%81%AE%E7%94%9F-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%B6%E3%83%99%E3%82%B9-%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%82%B9/dp/412203843X%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D412203843X"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51TQ76KBQCL._SL160_.jpg" border="0"></a></td><td><b>「死ぬ瞬間」と死後の生 (中公文庫)</b></br>エリザベス キューブラー・ロス</br>中央公論新社</br></br><a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E6%AD%BB%E3%81%AC%E7%9E%AC%E9%96%93%E3%80%8D%E3%81%A8%E6%AD%BB%E5%BE%8C%E3%81%AE%E7%94%9F-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%B6%E3%83%99%E3%82%B9-%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%82%B9/dp/412203843X%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D412203843X">このアイテムの詳細を見る</a></br></td></tr></table>

あ、そうそう、キューブラー・ロスを読んでいて、人間には五つの自然な感情があり、それは恐怖と罪悪感と怒りと嫉妬心と愛だという話が面白かった。これについてはまた書く余裕があるときに、あるいはもう少しこのことについての見解が深まった時に書きたいと思う。

一つだけ書いておくと、こうした感情はマイナスのように思われていて、どうもみないようにする傾向が私などにもよくあるのだけど、これらのことについて角度を変えて考えてみることは案外重要なんだということを『「死ぬ瞬間」と死後の生』を読みながら思った。自分の中の様子を、「好み」という観点で見直してみよう、と思い立ったのは、たぶんそういうことを考えた影響なんだと思う。どこでどういう風にこの二つがつながるのかはわからないのだけど、とりあえず思ったことだけ書いておく。

暴走する一つの原因は、どうもキーボートの下の広い面積のところに掌を置きっぱなしにしているかららしいということが経験的に分かってきた。今、ハンカチを敷いてやってみているが、ちょっと試行錯誤が必要かもしれない。
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   <title>人生にあるべき姿などない</title>
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   <published>2010-03-11T09:13:44Z</published>
   <updated>2010-03-11T22:27:19Z</updated>
   
   <summary>昨日は荒れた天気。体温も高めで、やや調子が悪い感じが続く。10時ごろ仕事を終わり...</summary>
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      昨日は荒れた天気。体温も高めで、やや調子が悪い感じが続く。10時ごろ仕事を終わりにして家に帰り、簡単に夕食を食べてさっと風呂に入り、早目に寝た。今朝起きた時の体温がかなり高かったので少し危ぶんだが、体の感じはわりと爽快だったので大丈夫だろうと思い、職場に出て不燃物の処理をする。捨てなければならない古雑誌の山などもひとまとまりだけ処理。やっているうちに減っていくだろう。出さなければ少しも減らないが、少しでも毎回出していれば減るわけだから。

職場に父の友人で私も世話になった先生からの手紙が来ていて、そのことについて朝食時に少し母と話をする。父のやろうとしていたことは実際理解されにくいことであることは確かなんだが、たぶん同志を求める対象が違っていたんじゃないかとも思う。ただ、自分が生きてきた世界との重なりということもあるし、そういうのはなかなか難しいのだけど。

会計事務所に電話して必要なことを確かめ、午前中は自分の確定申告を作成。職場に出て新しいパソコンで複合機から印刷しようとしたら、複合機のプリンタが故障。あとでサポートに電話したら電源コードを一度抜いてさしなおせと言われて、やってみたら治ったので早く電話したらよかったと思ったのだが、結局自宅に戻ってインクジェットで印刷。添付書類を張り付け、ハンコを押して封筒に入れ、郵便局に車で行って窓口で差し出す。ああ、ようやく終わった。今年は青色申告の部分があったから面倒くさかった。来年以降はもっと大変になるな。

『モーニング』を買ってきて読む。「ピアノの森」、レフが鉄板の優勝候補として素晴らしい演奏をし、ついにカイの出番。カイに向井が話しかけていて、最近出てきたばかりのキャラなのにけっこう大きな存在になってきた。カイの曲目、ピアノソナタは3番だということは明らかになっているが、ポロネーズとマズルカはどういう選曲になるか。次回の掲載は2週間後の25日だが、その前の23日に単行本17巻が出る。パンウェイのあたりまではいくかな。また連載時との比較をしてみるときっといろいろ変えてくるだろうと思うし、楽しみだ。

郵便局に行った後、その足で豊田の方に行ってガソリンを入れ、そのまま西山の方へ走って天然酵母のパン屋へ行く。あんパンと、フレンチトーストを買った。ルヴァンで売っているようないちじくのぱんとかがあるといいのだけど、ああいう硬い感じのパンはひと色しかなく、少し高かったので今回はやめにした。

まだまだ風邪の経過中という感じ。体のいろいろな個所の異常が明らかになって、すこしずつすっきりしては来ているけど、風邪を卒業するには少し時間がかかりそうだ。体のエネルギーもそちらに取られていて、何かまとまったものを書いたりまとまった大きなことをしたりするにはまだ自分の中で満ちてくるものが足りない感じがする。あまり焦らずに、ゆっくり待とうと思う。

知性とか思考とかいうものについて考える。そういうものは基本的に生きる上での道具
という側面が強いと思うし、そういうものを絶対視すると危ないとは思うが、逆にそういうものを軽視したり無視したりする集団もまた危ない。学問的な、あるいは科学的な知では本当のことを知ることが出来ない、という側面も確かにあり、その不満が80－90年代には多くの学生をオウム真理教のようなカルト団体に導いたわけだが、しっかりした知性が防止する大きな間違いのようなものも確かにある。結局は一つのことにとらわれず、決めつけず、本当はどうかと問い続けるしかない。

キューブラー・ロスを読んでて出てきたヴァージニア・サターの言葉をウェブで調べていたら「人生に、あるべき形などない。人生はあるがまま。あなたのかかわり方によって、それは変わってくるのだ。」という言葉を読んで、人生がどんな形に結果的になるのかなど、誰にもわからないんだよなとあたりまえのことを今更ながら思った。やはり、人生はこんな風にしたい、という漠然としたイメージがあり、そうなるものと思い込んでいるところがあって、でも実際にはあまりそうなっておらず、それがけっこうストレスだったりするところが自分にもあるんだなと思う。

最近、仕事や様々な面で自分はこうあらなければならないというのが強くあって、本当ならゆっくり風邪をひいて体がストレスを感じている部分をすっきりさせたいという感じがあったのだけど、なかなかそういう機会がなかった。今回風邪をひいてみて、別に仕事をしながらでも風邪はひけるなと思った。もちろん多大な無理はできないが、普段普通にこなしているくらいの仕事は十分できる。こういうのって今まで自分のビジョンにはなかったが、今回なんか思ったよりうまくいっている。それは一つにはほぼ一時間おきに体温を測っているからで、37度くらいの時の自分の体の感じはこんなもの、37度6分くらいまで上がるとこういう感じになる、寝ると起きた時には体温は上がっているし、動いたり入浴したりしたらもちろん上がる。とか、体温と体調を関連付けて客観的にみられるようになった感じがする。のどの風邪は大分治って、声はほぼ普通に出るようになったが、今は副鼻腔のあたりに取り組んでいる感じで、ここはもうしばらくかかるかもしれない。コーヒーを飲むとどうもその刺激が鼻の奥を痛くするとか、口に入れるものと体の感じの関連もいろいろわかって面白い。自分の体はしょうがないなあと思うくらい自然志向なんだなと思う。

そういうことでいうと、『「死ぬ瞬間」と死後の生』を読んでいるとキューブラー・ロスが自然食とか菜食主義にすごく反発し、抵抗しているのが面白い。彼女はコーヒーを飲み、ハンバーガーを食べ、たばこを吸い、健康食品の類にはアレルギーを起こすのだそうだ。子供に心を開かせるのは自然食ではなくドーナッツとコーラだ、と言ったり、そういうものを極端主義として排しているらしい。私も基本的にそういう方向だったからよくわかるのだけど、最近はどうも体がそういう自然的な方向を要求するのでしかたないなあと思う。とにかく体が弾力を取り戻し、自然にエネルギーが満ちてくるような体に戻さないと、私のやろうとしていることなんかできないだろうなあと思う。

「人生にあるべき姿などない」というのは、大学へ行って就職して定年まで働いて、という一般的な人生像に対するアンチテーゼであるだけでなく、そこからはみ出してどんなふうに生きていくかという時にも起こりがちな「こんな風に生きなければならぬ」という人生ビジョンに対するアンチテーゼでもある。人生というのは基本的に、どっちに転ぶかわからないものだ、ということは分かっていても、そうした転び方を本当には肯定していないところが自分にはある。転んでしまったら立ち上がって元のコースに戻るという選択肢以外に、転んでみたら今までとは全然違う景色が見えることもあるのだから、そこから全然違うことをしだすことがあったって別におかしいことではないのだ。

その辺の柔軟性が欠けるというのは、結局転んだときに違う角度からものを見ることが出来ていないということと、そのことをちゃんと評価する心の余裕がないということがあるのだろう。まだまだ私の人生も謎が多いが、というかどうせ死ぬまで謎なのだけど、その謎を楽しんでいくしか人生の生き方というのはないんだろうなと思う。
      
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   <title>すべてを知っている存在／死に向き合った体験／潔癖への傾き</title>
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   <published>2010-03-10T09:29:26Z</published>
   <updated>2010-03-11T06:42:57Z</updated>
   
   <summary>昨日帰郷。地元の自然食のパン屋でメンチカツバーガーとアップルタルトを買い、東京駅...</summary>
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      <![CDATA[昨日帰郷。地元の自然食のパン屋でメンチカツバーガーとアップルタルトを買い、東京駅に出て、丸の内丸善で『おもいでエマノン』と『さすらいエマノン』を買う。新宿12時発の特急。車中で二冊とも読む。エマノンとは生命の誕生以来の記憶をすべて母子遺伝で覚えているという存在で、『おもいで』でも『さすらい』でも基本的に17～18歳くらいの女の子で出てくるが、常に煙草を口にくわえ、洗いざらしのジーンズにセーター、そばかすのすっぴんの顔に真ん中わけのロングヘア、という感じだ。語り手はカーフェリー「さんふらわあ」の二等船室で乗り合わせたエマノンといろいろな話をするが、親しくなった翌朝には彼女は消えている。

<table><tr><td><a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%81%8A%E3%82%82%E3%81%84%E3%81%A7%E3%82%A8%E3%83%9E%E3%83%8E%E3%83%B3-%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%82%A6%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB-%E9%B6%B4%E7%94%B0-%E8%AC%99%E4%BA%8C/dp/4199500774%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4199500774"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/517ldEoxkJL._SL160_.jpg" border="0"></a></td><td><b>おもいでエマノン (リュウコミックススペシャル)</b></br>鶴田 謙二,梶尾 真治</br>徳間書店</br></br><a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%81%8A%E3%82%82%E3%81%84%E3%81%A7%E3%82%A8%E3%83%9E%E3%83%8E%E3%83%B3-%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%82%A6%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB-%E9%B6%B4%E7%94%B0-%E8%AC%99%E4%BA%8C/dp/4199500774%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4199500774">このアイテムの詳細を見る</a></br></td></tr></table>

エマノンというの存在にひかれるのはたぶん、この少女がこの地球上で起こったことをすべて記憶している存在で、「何もかも」を知っているからだろう。若い頃は特に、そういう存在を誰かに投射して求めていた記憶が私にもある。それは確かに若い女性だったことが多い。知識や経験の積み重ねで知るのではなく、先験的に何もかも知っている存在。賢者とは通常大人の男、あるいは老人であることが多いけれども、経験や知識ですべてを知ったのではない存在は、むしろその正反対である若い女性に奇蹟を投影してみたくなるのではないかと思う。経験によって極めた知ではなく、最初から、すなわち生まれた時から本質をつかんでいる存在であるものに、私は昔から憧れのようなものを持っていて、たぶんそういう部分は今でもある。

それはある意味、「神は最も無垢なものに宿る」というある種の信仰的信念の投影でもあるだろう。しかしこういうイメージを持っていると、経験を積み重ねて知を極める老賢者などというものは全然魅力的に見えず、自らの成長の指針というようなものにはならない。成長というものを善として一つの修得すべき徳として考えるならば、年齢が増していけば人はよりよくなるというのが正しい姿であるけれども、そうでない例はもちろん数多い。子供のころは、人間という存在をより刹那的なものとしてとらえる傾向はある。私は「成長」というものを信じていただろうか。そして今でも信じているのだろうか。

実家の駅で降りると雪景色。家に戻り、支度をして職場に出る。天気は荒れ模様。夜になって雪が激しくなる。人が訪ねてきてしばらく相談に乗る。ちょっとしゃべりすぎたのか、咳き込んだりする。大分ましにはなったが、まだのどの調子は万全ではない。

今道友信『エコエティカ』。倫理というのは善悪を処断して身動きが取れなくなる不自由なものだという印象があったけれども、そうした「心を縛る」ものとしてというよりは、行動の指針になる「大事にすべきもの」は何かということを考えるもので、だからそれは時代と状況の変化によってかわりゆくものなのだということが分かって少しこういうものに関心がわいた。心の問題として様々なものの価値を考え、善悪を考え、行動の指針を作っていく、ということなんだろう。

キューブラー・ロスの『「死ぬ瞬間」と死後の生』は、子供のうちに死を受け入れざるを得なくなった子どもたち、子供のうちに親や兄弟が死ぬことを受け入れざるを得なかった子供たちの話が続く。大事なのは「死を受け入れること」だとロスは言う。私もずっと父のそばについていたので、その体験が貴重であることはよくわかる。ただこれって、誰でも理解できること、だれでも受け入れられることなのかなあと思う。父の死と向き合えた一月弱は自分にとって貴重な、何物にも代えがたい期間であることは確かだが、病院や主治医の対応という面でいえばある意味最悪の体験だった。しかしそれは特定の病院のせいではないのだと思う。私自身は死ぬときは病院では死にたくない、と思う。昔の人みたいに畳の上で死ぬのがいい。誰かと語り合いながら、というのがいいなと思う。死というものの体験のある種の神秘性というのは、一緒にいても何も感じない人もいる。それは神社にお参りに行ってもその聖性、そのすがすがしさのようなものについての感覚があまりない人もいるということとほとんど同じことではないかという気がする。そういうものって、やはり持って生まれたものではないかなあと思ってしまうと、先に書いたような先天性神話のようなものにまた帰着してしまわざるを得ないのだが。

<table><tr><td><a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E6%AD%BB%E3%81%AC%E7%9E%AC%E9%96%93%E3%80%8D%E3%81%A8%E6%AD%BB%E5%BE%8C%E3%81%AE%E7%94%9F-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%B6%E3%83%99%E3%82%B9-%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%82%B9/dp/412203843X%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D412203843X"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51TQ76KBQCL._SL160_.jpg" border="0"></a></td><td><b>「死ぬ瞬間」と死後の生 (中公文庫)</b></br>エリザベス キューブラー・ロス</br>中央公論新社</br></br><a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E6%AD%BB%E3%81%AC%E7%9E%AC%E9%96%93%E3%80%8D%E3%81%A8%E6%AD%BB%E5%BE%8C%E3%81%AE%E7%94%9F-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%B6%E3%83%99%E3%82%B9-%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%82%B9/dp/412203843X%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D412203843X">このアイテムの詳細を見る</a></br></td></tr></table>

10時過ぎに帰ろうとしたら雪が車にびっしりついていて、フロントガラスの雪はワイパーでは取れず、結局四方の窓ガラスとライトを傘で払った。帰着したのはずいぶん遅くなってしまった。夕食を食べて、入浴はやめて、足湯だけして寝た。

今朝は一面の雪景色で目が覚めた。朝食前に雪をかき、朝食後も雪をかいたら疲れが出たらしく、午前中は何もせずに、というかできずにひっくり返っていた。11時くらいになってようやく起きだし、銀行に行って郵便局に行って職場によって図書館に行ってコンビニに寄って帰ってきた。

体温は37度台前半から36度台後半を往復している感じで、少し上がると体の調子はいいが頭がぼーっとし、少し下がると頭はすっきりするが体が何かかったるい、という状態を繰り返している感じがする。昼食後わりと頭がすっきりしたのだけど、なんだか物事に対するやる気のようなものも毒素と一緒に抜けていっそすっきり、みたいな感じでどんなもんだろうと思う。やはり私は根本的に、努力によって伸びる力、みたいなものに根本的に価値がおけない精神構造をしてるんだなと思ってしまう。もちろんそれは生きる上ではとても大事な力だし、それがなければ生きていけないしたつきを得る仕事も成り立たないけれども、自分がほしいのはどうもそういうものではない。努力によって山を貫くとか、そういう話は本当にすごいと思うけれども、何がすごいかといえばその山を貫くという天啓そのものがすごいと思うのであって、人はそれに忠実に行動したにすぎないのだと思う。

そういう人間にとって成長とはどういうことなのかといえば、「努力によって積み重ねること」、ではないと言わざるを得ない。しかし努力のない人間に天啓が下りるということもまたあり得ないのであって、正しい努力が天啓のためには必要だということには同意できる。伊能忠敬なんかは誰にやれと言われたわけでもないのにああいう勉強を始めてついには日本全国を測量して地図を作ってしまったわけだし、ギボンなんかもだれにいわれたわけでもないのにある日突然『ローマ帝国衰亡史』を書き始めたりして、ああいういきなりの感じが私は好きだ。

たぶんすっきりしただけでは頭や体や心が空っぽになっただけで、まだ満ちてきていないということなんだろうと思う。イメージが自然にわいて気はするようになったのだけど、まだ言葉になるほど明確なものではないし、書きとめようとすると壊れてしまう。「ずっとやりたかったことをやりなさい。」のことを考えていても、どうもそのわざとらしさというか策略的(というか方便的な部分の感じ)な感じがすごく鼻についたり、ニュートラル以上に潔癖的な傾向に心が傾いている。もう少し満ちてくるとそういうことに対する許容力も上がると思うし、まあ心と会話をするのもそうなってからの方がいい気がする。

人間は、何も分からないから、何もかも知っている存在に憧れるんだろう。「知ってそうに見える」人にだまされるのはもうごめんだが、人にものを教えるという仕事はそういう信頼感を演出する必要もある。というか、必要以上に謙虚ではいけない。できれば、何でも知ってるというところを見せて、そのうえで「まだまだ全然知らない」という本音を語れば「知るということの遠い道のり」を感じてもらうことが出来ていいとは思うが、そんな気の利いた事をして通じる相手もどのくらいいるのかなと、ああやっぱりちょっと潔癖的に傾きすぎているな今は。
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   <title>からだをやわらかく／『エマノン』／こころをやわらかく</title>
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   <published>2010-03-09T00:35:33Z</published>
   <updated>2010-03-09T00:40:53Z</updated>
   
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      <![CDATA[昨日。更新が遅くなったし、昨日のことは大体書いたので新たに付け加えることはないのだけど、昨日書いてからあとも思考は動き続けているので書くことがなくなることはない。昨日は11時からしばらく体温が36度台前半に落ちたので低音期に入ったかなと思い早めに休もうと思ったのだが、なんだかんだと1時になってしまった。今朝は起床6時。寝床の中で体温を計ると37.0度。ここ二日間、起きたときに7度あるということはなかったのであれまあと思ったが、確かになんか疲れている感じがする。しかしそれは昨日の疲れが残った、という感じでなく、新たに発生した疲労感という感じだった。

起きているときは咳が出ないが寝ると咳が出るのは気管が硬化しているからだ、というのを読んで、なるほどと思い、活元運動をするときも筋肉や骨格をほぐすというよりからだの中の脈という脈、管という管を全部柔らかくするというイメージでやるとわりと体がよく動くことに気がついた。それなりに柔らかくしたかなというところで寝る。枕を深くすれば咳は出にくい、ということなのでそうしてみたら実際咳はあまり出なかった。まだ声は鼻声だが、だいぶましになった感じだ。

モーニングページを書いて、ゴミをまとめて捨て、洗い物をして、朝食。昨日買って来たルヴァンの無花果のパンとレーズンナッツのパン。胡桃も入っている。1センチくらいに切ってオーブントースターで焼く。その間に牛乳をチンしコーヒーを沸かして用意。四葉バターをつけて食べると美味い。しかしこれは顎が疲れるなと思う。買い置きの冷凍のイングリッシュブレッドも焼いて比較してみたが、天然酵母のすっぱみのある重いパンを食べた後で食べるとほとんど味がしないような感じ。ちゃんとしたものを食べているという実感がある。まだ残ったので冷凍してみて、来週チンして食べてみようと思う。どんな感じになるか。

昨日思い出せなかった単語を思い出したのでグーグルで検索してみて、昨日気にかかった本は『エマノン』のシリーズだということが分かった。高岡書店で見たのはこちら。

<table><tr><td><a href="http://www.amazon.co.jp/EMANON-%E3%81%95%E3%81%99%E3%82%89%E3%81%84%E3%82%A8%E3%83%9E%E3%83%8E%E3%83%B3-Episode-1-%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%A0/dp/4197202954%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4197202954"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51jVaDmW81L._SL160_.jpg" border="0"></a></td><td><b>EMANON さすらいエマノン Episode:1 (ロマンアルバム)</b></br>梶尾真治,鶴田謙二</br>徳間書店</br></br><a href="http://www.amazon.co.jp/EMANON-%E3%81%95%E3%81%99%E3%82%89%E3%81%84%E3%82%A8%E3%83%9E%E3%83%8E%E3%83%B3-Episode-1-%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%A0/dp/4197202954%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4197202954">このアイテムの詳細を見る</a></br></td></tr></table>

圧倒的な裸体のイラストもすごいのだが、何だかどういう話なのか読んでいてよく分からない。どうも生まれ変わりがテーマらしいということは最後の方でわかったのだが。このシリーズ、昨年のいつごろだったか、書泉グランデの地下でちょっと引っかかりそうになったのだけど、70年前後の不良娘みたいな主人公が、一体どういう趣旨で描かれているのか見当がつかず、全共闘世代のノスタルジアマンガみたいなものを今更読みたいとは全然思わないし、後ろ髪を引かれるところはあったけど買ってなかった。そのとき店頭で見たのがこれだ。


<table><tr><td><a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%81%8A%E3%82%82%E3%81%84%E3%81%A7%E3%82%A8%E3%83%9E%E3%83%8E%E3%83%B3-%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%82%A6%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB-%E9%B6%B4%E7%94%B0-%E8%AC%99%E4%BA%8C/dp/4199500774%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4199500774"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/517ldEoxkJL._SL160_.jpg" border="0"></a></td><td><b>おもいでエマノン (リュウコミックススペシャル)</b></br>鶴田 謙二,梶尾 真治</br>徳間書店</br></br><a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%81%8A%E3%82%82%E3%81%84%E3%81%A7%E3%82%A8%E3%83%9E%E3%83%8E%E3%83%B3-%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%82%A6%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB-%E9%B6%B4%E7%94%B0-%E8%AC%99%E4%BA%8C/dp/4199500774%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4199500774">このアイテムの詳細を見る</a></br></td></tr></table>

で、アマゾンで見てみると、地球が誕生したときからの記憶をすべて持っている、という主人公らしい。ああそうか、これはSFだったのかとそのとき初めて気がついた。こういうテーマのSFって、子供のころはすごく好きだった。去年やはりけっこう評判だったらしく、あまり警戒しないで買えばよかったと思った。今日時間があったら見ておこうと思う。

キューブラー・ロスや今道にひかれるのは、やはりこころのことを、特に自分のこころをもっと知れ、ということなんだなと思う。それは宗教的なアプローチやややスピリチュアル的な方面のアプローチ、また創造性と行った方面のアプローチだけでなく、思考や感情、あるいは身体的な痛みや不快、快感や爽快感のかげにすぐ隠れてしまう私のこころというものをもっと自立させるために出来るアプローチがあるんじゃないかという気がしてきた。倫理というと善悪とか正義不正義とかどうしても絶対的な価値観を押し付けられるような感じがしてあまり近づかないようにしていたが、これが大事であるとか、あまり大事ではないとか、これからはこれが徳目として立てられるべきではないかとか、割合相対的にものを考えることも出来るかもしれないという感じをロスや今道を読んでいて持ったので、こころも少しは安心して出て来られるのではないかと思う。自分の中に「絶対」を持っている人は、ある意味強いけれどもある意味脆い。絶対ではないけれどもこれは大事、という価値観の方が、柔構造的に上手く対応できるんじゃないかと思う。考えてみると私がこういう思考が苦手なのはどうしても絶対、という思考がでてきてしまうからなんだなあと思った。そのへんのところをもっと柔らかくしていかないといけないと思う。]]>
      
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   <title>『ストップ!!ひばりくん』が浄化された／天然酵母のパン屋／死ぬ瞬間とか新しい倫理とか</title>
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   <published>2010-03-08T14:35:22Z</published>
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   <summary>昨日から今日にかけて。いろいろなことをやりながら。風邪を治すのにプラスになってい...</summary>
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      <![CDATA[昨日から今日にかけて。いろいろなことをやりながら。風邪を治すのにプラスになっているのかどうか分からないことも多い。うちでじっとしてるばかりが能じゃないだろう、と思って動き回っているのは、体温が大体36度台後半だからだが、昨日も今日も帰ってきてすぐ計ったときは37度2分あった。普段はめったに測らないので変動がある気がするが、基礎体温ではないけれども普段から計っておくと変動しているときの様子が分かるから計っておくといいかもしれないと思った。野口整体でも体温と脈拍と呼吸数は判断材料にすることがあるので、自分の体の観察の一環として少し習慣付けてみようかと思う。

考えてみたら、中学生のときに「野口整体ってすごいな」と思ったのは、右脇で測った体温と左脇で測った体温が違う、ということを指摘されたときだった。もちろんそのことだけではないのだけど、体温というのはわりと重要な指標であることは野口さんの著書にも書いてあるし、今までおろそかにしすぎたかもしれない。

<table><tr><td><a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%83%E3%83%97-%E3%81%B2%E3%81%B0%E3%82%8A%E3%81%8F%E3%82%93-%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B31-%E6%B1%9F%E5%8F%A3-%E5%AF%BF%E5%8F%B2/dp/4778031199%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4778031199"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/61w3oXlKq0L._SL160_.jpg" border="0"></a></td><td><b>ストップ!!ひばりくん! コンプリート・エディション1</b></br>江口 寿史</br>小学館クリエイティブ</br></br><a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%83%E3%83%97-%E3%81%B2%E3%81%B0%E3%82%8A%E3%81%8F%E3%82%93-%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B31-%E6%B1%9F%E5%8F%A3-%E5%AF%BF%E5%8F%B2/dp/4778031199%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4778031199">このアイテムの詳細を見る</a></br></td></tr></table>

昨日は昼食後神保町に出かけた。新御茶ノ水のがいあプロジェクトに立ち寄ろうと思ったら仕舞っていた。書泉ブックマートで江口寿史『ストップ！！ひばりくんコンプリートエディション』全3巻（小学館、2009-10）を一気買いした。最初は3だけにしようかと思ったが、勢いのあるときに買ってしまえと思い。それから三省堂と東京堂を見て東京堂で野口晴哉『風邪の効用』（ちくま文庫、2003）を買ってマザーズに行き、レストランでテイクアウトの880円詰め放題（もっと入るよといわれたが）のごはんとおかずを買い、マーケットで生姜の蜂蜜漬けと生姜湯を買った。なんで生姜尽くしになったのか。風邪を引いているせいだ。昨日はわりとあっさり帰り、家で『ひばりくん』をじっくり読んだ。

『ひばりくん』は80年代マンガ黄金期の作品の中でも、当時のメジャー誌の中でいちばん好きな作品だった。既に大学生だったから『少年ジャンプ』を買うのも気が引け、ときどき立ち読みしてはコミックスがでたら買うという感じだったので、今でもジャンプコミックス4巻は持っている。ただ、いかにも中途半端なところで終わっているので、常々先が読みたい、一段落するまで読みたいと思っていた。

<table><tr><td><a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%83%E3%83%97-%E3%81%B2%E3%81%B0%E3%82%8A%E3%81%8F%E3%82%93%EF%BC%81%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3-2-%E6%B1%9F%E5%8F%A3-%E5%AF%BF%E5%8F%B2/dp/4778031202%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4778031202"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51r3Zf71oKL._SL160_.jpg" border="0"></a></td><td><b>ストップ!!ひばりくん！コンプリート・エディション 2</b></br>江口 寿史</br>小学館クリエイティブ</br></br><a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%83%E3%83%97-%E3%81%B2%E3%81%B0%E3%82%8A%E3%81%8F%E3%82%93%EF%BC%81%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3-2-%E6%B1%9F%E5%8F%A3-%E5%AF%BF%E5%8F%B2/dp/4778031202%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4778031202">このアイテムの詳細を見る</a></br></td></tr></table>

ついに念願がかなった感じで、1巻から読み始める。表紙が完全に新しいイラストだ。何しろ当時と絵柄が違う。中身は、連載時にカラーのところはカラーで、二色刷り（黒と朱？）のところは二色刷りになっていて、いろいろと感慨深かった。2巻は未収録作品がひとつあって、なんか違和感があるなと思いながら読んだのだけど、帯を読んで納得が行ったのだが、作者として納得が行かずに単行本に収録しなかった作品（二回分）を、今回のコンプリート版編集に当たってひとつにまとめ、新しく書き下ろしたのだという。線が違うし背景の描き方も違うので、その当たりに違和感を感じるのは当然だったのだ。いくら江口寿史でも、28年前と同じに描けるわけがない。

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第3巻は初めて見る作品がずいぶん多くてやはり読み応えがあった。表紙のイラストは、ツイッター上で下書きが公開されていたもの。読者も漫画家の皆さんもみな「ありがたや～！！」という感じで拝んでいたが、それが表紙になって、なんだか実際ありがたいものになっている。1、2巻もそうだが、ジャンプコミックス（以下JCと表記）に収録されたときには連載時と順番が異なっているものもいくつかあるし、結局収録されなかったものもいくつもあるんだということがわかった。私はJC「ひばりくん」は何度も読み返したけれども、そのせいで「ひばりくん」の世界はそこに収録されたものだけで完結してしまっていたのだけど、こうして読んだことない作品が出てくると本当はもっと広い世界だったんだなあとじんわりした気持ちになる。

特にJCに未収録の、当時の原稿のものは胸がきゅんきゅんするといっていい。何で自分は今までこれを読んでなかったんだろうとジャンプを毎回買ってなかった自分を責めたくなるような感じだ。最終回の「激ちゃん」は、「少年漫画は死んだッ…」という台詞ばかりが有名でどんな作品なのか全然分からなかったが、ぶっちぎられたあとを26年後に書き足すという荒技でついに完結させ、なんというか、「ひばりくんの続きを読みたい…！」という26年越しの思いが、ついに鎮魂させられたという感じがする。そう思うのはいろいろ理由があるけれども、多分今までもこうしたコンプリート版が出されてもそういうことはしなかったのは、やはり絵柄がもう変わってしまったからだったのだと思うし、今回それをも顧みずともかくも完結させたその江口先生の、作者自身も引きずってきた思いがここに浄化されているのを見るともう何もいえない…という感じがするからだ。本当に、これで終わりなんだ…という思いがする。本当に「26年後の江口寿史の絵」でかかれた「ひばりくん」をみると、そう思う。巻末に没カットがいくつか収録されていて、どれもそれなりに面白い、というか、「こういうふうにもなりえたひばりくん」という感じでまだ見ぬ懐かしさのようなものを感じた。ああ、こういうものは手放しで褒めてしまうなあすべてを。

<table><tr><td><a href="http://www.amazon.co.jp/%E9%A2%A8%E9%82%AA%E3%81%AE%E5%8A%B9%E7%94%A8-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%87%8E%E5%8F%A3-%E6%99%B4%E5%93%89/dp/4480038078%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4480038078"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41PJMV8CV6L._SL160_.jpg" border="0"></a></td><td><b>風邪の効用 (ちくま文庫)</b></br>野口 晴哉</br>筑摩書房</br></br><a href="http://www.amazon.co.jp/%E9%A2%A8%E9%82%AA%E3%81%AE%E5%8A%B9%E7%94%A8-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%87%8E%E5%8F%A3-%E6%99%B4%E5%93%89/dp/4480038078%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4480038078">このアイテムの詳細を見る</a></br></td></tr></table>

『風邪の効用』は全生社から出ているものを持ってはいるのだが信州の方においてあるので、東京で読みたいときのためにちくま文庫版を一冊買っておいた。内容が微妙に異なるところもある気がするが、今のところよく分からない。何だか昨日は「エディション」によって違う、既に原エディションは持っているものばかり買ったんだなということに今頃気づいた。

<table><tr><td><a href="http://www.amazon.co.jp/Landreaall-11-ID%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-ZERO-SUM%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E3%81%8A%E3%81%8C%E3%81%8D/dp/4758053189%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4758053189"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51MHBMMEKNL._SL160_.jpg" border="0"></a></td><td><b>Landreaall (11) (IDコミックス ZERO-SUMコミックス)</b></br>おがき ちか</br>一迅社</br></br><a href="http://www.amazon.co.jp/Landreaall-11-ID%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-ZERO-SUM%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E3%81%8A%E3%81%8C%E3%81%8D/dp/4758053189%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4758053189">このアイテムの詳細を見る</a></br></td></tr></table>

『ひばりくん』を読み終わったあとなぜか『ランドリ』モードに入ってしまい、『ランドリオール』の特にウルファネア編をじっくり読んだ。最初に読んだときにわりとはしょって読んでしまってから、どうも細部がよく分かっていなかったのだが、なぜかあまりこの当たりは読み返してなくて、登場人物のそのときそのときの心情がよくつかめていなかった。今回はわりとそのあたりがよく読めてよかった。

ということが日をまたいで月曜の午前中まで続く。モーニングペ－ジも書かずに読んでいて、一段落ついたらもう昼近くになっていて、今日の予定の行動のタイムリミットになった。といっても体調によってはそれを取りやめる考えもあったのだが、体温が安定しているので出かけることにした。声はまあまりよくないんだけど。

行く店を二つメモして出かける。まずは千代田線で「代々木公園」へ。山手通りの歩道橋を渡って富ヶ谷。「<a href="http://levain.chottu.net/" target="_blank">ルヴァン</a>」へ行く。これは西村佳哲が『自分の仕事をつくる』で紹介していた天然酵母のパン屋。カフェもやっていてその場で食べられるということが分かったので昼食時間にと思って。店に行きつくと、あまりに私の持つ「自然食の店」とイメージにぴったりの店で逆にちょっとびびったが、窓際の席に座って「ゴマみそサンドイッチのプレート」を注文。出てくるまでの間にモーニングページを書く。店員の人はみな生き生きと働いていて、何だか客の私もあんまりのんびりしたりくつろいでいたりしたらいけないんじゃないかという気分になってくる。それが急かされるようないやな感じというのではなく、やっぱり働いているのが人間の正しい姿だよな、と自然に思ってしまうような。経営者の甲田さんもときどき目の前を通ったりして、「ああ、この人なんだな」と思う。でてきたのは菜の花と人参を煮たのにゴマみそをかけたサンドイッチと、薄いドレッシングで味付けされたレタス、それに自然な味のマーマレードを添えられたパンが二かけら。レタスが美味しい。菜の花と人参なんて、こんな単純なものがこんなに美味しいなんて、という感じ。二つのパンもかなり大きく、食べきれない感じで休み休み食べる。顎がだいぶ運動した。パンが残っていたので一息入れてからコーヒーを注文。割とオーガニックな味だが美味しいコーヒーで、パンをお茶請けにして飲んだ。満足。

それから店舗のほうに回り、いちじくのパンとレーズンのパンを買って袋に入れてもらって店を出た。帰りは井の頭通りの横断歩道を渡り、山手通りの下をくぐって駅に戻った。

<table><tr><td><a href="http://www.amazon.co.jp/%E8%8B%B1%E5%8D%98%E8%AA%9E%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%84%E3%81%BB%E3%81%A9%E3%81%8A%E3%81%84%E3%81%97%E3%81%84%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%84-%E9%8A%85%E3%83%A1%E3%83%80%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%B9-%E6%B8%85%E6%B0%B4-%E3%81%8B%E3%81%A4%E3%81%9E%E3%83%BC/dp/452325138X%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D452325138X"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51H7VAMQ5TL._SL160_.jpg" border="0"></a></td><td><b>英単語ピーナツほどおいしいものはない 銅メダルコース</b></br>清水 かつぞー</br>南雲堂</br></br><a href="http://www.amazon.co.jp/%E8%8B%B1%E5%8D%98%E8%AA%9E%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%84%E3%81%BB%E3%81%A9%E3%81%8A%E3%81%84%E3%81%97%E3%81%84%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%84-%E9%8A%85%E3%83%A1%E3%83%80%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%B9-%E6%B8%85%E6%B0%B4-%E3%81%8B%E3%81%A4%E3%81%9E%E3%83%BC/dp/452325138X%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D452325138X">このアイテムの詳細を見る</a></br></td></tr></table>

もしおなかが余裕があったら同じく西村佳哲の『自分をいかして生きる』にでてくる黒森庵という蕎麦屋に行こうと思っていたのだけど、それどころではなかったので新御茶ノ水へ。今日はがいあプロジェクトは開いていた。英語の参考書でひとつ目当てのものがあったので三省堂へ行ってみたがどうも予想より面白くなく、他のを見て『英単語ピーナッツ』を3巻買った。これは先日友人が面白いよと教えてくれたもので、確かにいいなと思ったので買ってみた。今日はどうも本をじっくり見たい気になって、マンガのところやイラスト本のところを見て、中村佑介の作品を見たら『アジカン』のアルバムがほしくなり、神田でCDはどこで買えばいいのか分からずうろうろしているうちにディスクユニオンに行けばいいことが分かって高岡書店の隣のディスクユニオンで『ファンクラブ』を買った。
<table><tr><td><a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%96-ASIAN-KUNG-FU-GENERATION/dp/B000CNCFWG%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3DB000CNCFWG"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51Of1TUjGPL._SL160_.jpg" border="0"></a></td><td><b>ファンクラブ</b></br>後藤正文</br>KRE</br></br><a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%96-ASIAN-KUNG-FU-GENERATION/dp/B000CNCFWG%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3DB000CNCFWG">このアイテムの詳細を見る</a></br></td></tr></table>

そのあとでちょっと気になった作品があった高岡書店をのぞいたが、絵は思い出せるんだが作品名が出て来ないのでここには書けない。それを買うかどうか考えながら歩いてどうせなら書泉グランデの地下も覗こうと思って下に行き、いろいろ考えたけど買わなかったのだが、1階に上って何気なく文庫を見ていたら父の葬儀に来てくれた父の友人が熱心にこの著者は面白いと勧めてくれたキューブラー・ロスの本があった。中公文庫で何冊かでているようだったが、その1がなかったので河岸を変えて、東京堂で見たら全部あったのだけど、結局その１の『死ぬ瞬間』ではなく、講演を収録した『「死ぬ瞬間」と死後の生』（中公文庫、2001）を買った。まだちゃんと読んでないのでよく分からないけど、スイスで三つ子として生まれ、ポーランドでホロコースト生き残りの少女と会い、医者になってニューヨークに渡り、見捨てられた精神病患者たちと対話し…という人生を送った人らしい。立ち読みした『死ぬ瞬間』では、患者が死を宣告されてからそれを受け入れるまでの心の変化について詳細に書いてあるようだったが、このあたりたしか野口晴哉『人間の探求』でも取り上げられていたと思うし、もし面白いようだったら取り上げて比べてみてもいいかもしれないと思った。ただそちらの方は本も厚いし専門的・論理的な感じがしたのでまずは講演本を、と思って買ったのだった。

<table><tr><td><a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E6%AD%BB%E3%81%AC%E7%9E%AC%E9%96%93%E3%80%8D%E3%81%A8%E6%AD%BB%E5%BE%8C%E3%81%AE%E7%94%9F-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%B6%E3%83%99%E3%82%B9-%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%82%B9/dp/412203843X%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D412203843X"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51TQ76KBQCL._SL160_.jpg" border="0"></a></td><td><b>「死ぬ瞬間」と死後の生 (中公文庫)</b></br>エリザベス キューブラー・ロス</br>中央公論新社</br></br><a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E6%AD%BB%E3%81%AC%E7%9E%AC%E9%96%93%E3%80%8D%E3%81%A8%E6%AD%BB%E5%BE%8C%E3%81%AE%E7%94%9F-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%B6%E3%83%99%E3%82%B9-%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%82%B9/dp/412203843X%3FSubscriptionId%3DAKIAIRNYLEHVWKXBWIKA%26tag%3Dbloggoone0ab2-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D412203843X">このアイテムの詳細を見る</a></br></td></tr></table>

ついでにもう一冊と思い、物色して今道友信『エコエティカ』（講談社学術文庫、1990）を買う。この人は私の大学在学時代は保守反動の大物として有名で、私の友人らも何人か最終講義のときに野次を飛ばしに行ったのがいたが、今考えてみたら心無いことをしたものだと思う。まあ逆にいえばまだ全共闘時代の残り火みたいなのがあったともいえるんだけど。私はこの先生の授業を一度だけ受けたことがあったが、「藝術」という字を黒板の真ん中に書いてなんか難しい話を深刻な顔をしてしていたという印象しかなく、反動なんだかなんなんだかもよく分からなかった。美学の教授というふうにしか見ていなかったので倫理学の本も書いてるんだへえという感じはあるのだけど、社会の変化に伴って倫理も新しく立て直していかなければならないという作者の主張はよく分かるし、宗教的でない意志的な倫理というものを、一度ちゃんと考えてみてもいいのではないかという気がしたようで、この本を買ったのだった。まあ最近とみに強くなっている「政治的な正しさ」的な押し付けがましい倫理感（今年のアカデミー賞はその最たるもので、イラク戦争への反省・植民地主義への反感・イルカ漁糾弾の隠し撮り正当化など、民主党政権下のアメリカのイヤな面が強く出ている）でなく、「保守反動」なくらいの人のほうが読みやすいだろうとも思ったし。読んだ感じでは割と面白い、というより共感できる感じがする。

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けっこう2時間くらい散策したあとでがいあプロジェクトにより、弁当と無農薬のあきたこまちを1キロ買って帰る。帰ってきて体温を測ったらやはり37度2分だった。今はもう6度9分に下がっているが。なんか今日は買出しの一日だったな。

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   <title>「大人になる」という方向性</title>
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   <published>2010-03-07T04:17:25Z</published>
   <updated>2010-03-07T04:26:57Z</updated>
   
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      昨日帰京。昨日は概して仕事は暇だったのでよかったのだが、咳き込みすぎて声が出ないという状態だった。7時前の特急で上京したときには大丈夫かなと思う面もあったのだが、割りと順調に帰宅。警戒しているときは大体そんなに障害は起こらないものではある。

今朝も声はあまり出るとはいえないが、咳はだいぶ少なくなってきている。ときどき本当に痰が絡むと咳き込むときはあるが、それ以外は大体穏やかだ。寝る前から一時間おきに熱を測っているが、ここ数時間はずっと36度台後半で安定している。自分の平熱がどれくらい河からないのでなんともいえないが、平熱以下の時期は経過したのかどうか分からない。一度夜明けに36度2分というときがあったが、そのときだろうか。

昨日は帰りに駅の文教堂で『風邪の効用』と『ひばりくんコンプリート』第3巻を買おうと思ったが両方ともなかった。『バーテンダー』の16巻が出ていたので買って帰ったが、連載時にも少し退屈だと思っていたところで、ちょっといまいちだった。あとで考えてみたら昨日は『ダヴィンチ』の発売日で、「テレプシコーラ」の続きが気になってしまったが、思い出せなかったのは迂闊だった。

成長、競争、分配という三つのテーマをそれぞれ心、頭、体、というふうに分けて割り当ててみると、自分の中でとてもすっきりするものがある。体が自然の恵みを求めている、というか肉体としての人間は自然の分配を受けなければ生きていけないわけだし、いくら食べても限界はあり、また割合少なくても生きていけることも分かっているから、本当は肉体にはあまり欲望は関係ない、と思う。心理学的には本能的に欲しいものが欲求で、社会的に欲しがらせられるようになったものが欲望だというわけ方があるとどこかで読んだが、欲求というのは生理的な限界があるからある意味たいしたことはない。どんな男でも一晩で千人の女性と寝ることは出来ないのだし。そう考えてみると、ある意味人間の輪郭というのは割合すっきりと見えてくる感じがする。

頭で考えることは無限で、考えるだけならどんなことでも泉のようにいろいろなアイディアがわいてくるし、いろいろなものについての見かたなどもいくらでもでてくる。頭で考えることというのはゲームのようなもので、いつでも何かと競争している。自分自身との競争の場合もあるし、自分の想定した「社会」との競争の場合もあり、また実際に誰かとの競争の場合も多い。コンピューター相手に競争することも多いわけだし、とにかく知識を増やしたいとかとにかく技量を身につけたいと競争せずにはいられないのは人間性のひとつの性（さが）かもしれないと思う。

私はやはりこういう競争に夢中になってしまうところがあり、それで我を忘れて自分がなにをしているのか分からなくなってしまうところがある。それはある意味、競馬にのめりこんで財産も人生も台無しにしてしまうのと本質的には変わらないのかもしれない。こういう競争の中で身につけてきた知識や経験は確かに身過ぎ世過ぎに役に立ちはするのだけど、それはただたまたまそうなっただけに過ぎず、それによってたましいが満たされるかというとそういうわけでもない。何かに打ち込むことは悪いことではないけれども、競争にとらわれてしまうとそれはある種の無間地獄でもある。

自分はこの当たりの、何かに打ち込むことと何かと競争することの境目がいつも不鮮明で、いつの間にか何かとの競争になってしまっていたんだなと思う。というか、何かをしようとするときに、いつもどういうふうにそれを設定すれば自分の競争心が煽られてやる気が出るだろう、というふうに無意識に考えていた気がする。だから確かにそういうものに打ち込めはするのだが、打ち込んだあとで充実感が残らず、いつも虚しい思いが残った。一体それがなぜそうなのかということもよく分からなかった。

満たされるか満たされないかというのは心の問題、あるいはたましいの問題であって頭の問題ではない。頭というのはそういう意味では道具である。でも自分などは自分の人間構造が頭が中心になっている部分があって、心や体が置き去りになっているなと自分でも感じる部分が大きかった。そうかんじていてもどこに問題があるのか分からなくて、そういう部分を修正することが出来なかったなあと思う。

競争は楽しいが、それは娯楽の部分に留めておいた方がいいだろう。いつでもリタイアできるというポジションを取っていた方がいい。下りられないレースになったときに、心やからだを相当犠牲にせざるを得ないときがでてくる。それに十分耐えられる心とからだであるように鍛えていればいいけれども、少なくとも自分の鍛え方は不足していると思う。

問題は、心なんだなと思う。心が何を求めているのか、といえば、最終的には「成長」なんだろうと思う。成長ばかり強調するとどうかと思うところもあるし、心を型にはめるのは今更したいと思わない。ただ、好きなことをする、嫌なものを避ける、そのこと自体が自分を成長させ、自分を守ることなんだと思う。もちろん成長するために乗り越えなければいけない障害はあるけれども、それは「嫌だ」と本能的に感じるものとは違うだろう。やはり人間には「それは受け入れられない」というものがあるし、あるのが当然、あるべきなんだと思う。それを我慢しなければいけないというのは、成長のために必要な忍耐とは違い、無益な消耗だ。その当たりをきちんと見分けられないと、自分をきちんと守れない。

私はそういう見分け方が基本的に下手で、というのはそれを頭でやろうとしてきたからだ。心が受け入れられないというのは、そのときは言葉で説明できなくても、あとになれば割合はっきりとこういうことだといえるもので、私などはずっとそういう後付けの説明ばかりに気持ちを取られてきていたのだけど、そんなことは本当はどのくらい有益なのかよく分からない。

創造性の問題というのも、頭の問題でも体の問題でもなく、というかもちろん関連性がないわけではないけれども、根本的には心の問題で、創造性が回復し、開発されていくということは、心が成長するということだと思う。創造性のみが心の成長のすべてではないけれども。だから創造性の回復とは何か知識を身につけることではなく、自分がいかに心の声を聞き、育て、間違っているものを拒絶し、不必要なものを回避するか、そういう多くの経験を積むことそれ自体にある。創造性の回復訓練そのものが心の成長の始まりだし、それはそうであることが意識されなければならない。だからそういうものはあまり主知主義的であってはならないのだと思う。

もちろん心は体とも関連している。どこか体調が悪いだけで心が暗くなったりする。また心は頭とも関連している。心が必要なものを実際に調達してくるのは頭による思考であることが多いだろう。しかし心をぽかんとさせ、心を自由にし、また心を活発に、エネルギッシュにすることで、決して競争ではなく、自分がやりたいからやる、自分がそうしたいからそうする前向きの力を生み出していくことは大切なことだ。

自分がこうしたいことが出来ている、こうなりたい人間になっていることが、その人間が魅力的であることの条件だろうと思うし、大人であるというのもそういうことが満たされてないといけないと思う。欲求不満を抱えている人を見て、この人は大人だなと思うことはあまりないだろう。

大人であることってなんだろう。昨日つらつら考えて、いろいろ書き出してみた。書き出して見るとかなり膨大になったのでちょっと驚いた。

社会性、創造性、自立性（自律性、経済的にも精神的にも）、関係性。経営力、統率力、教育力。分のわきまえ―自分を知っていること。TPOのわきまえ、礼儀作法、たしなみ、身ぎれいさ。自発性、客観性―感情にとらわれないこと、偏見にとらわれないこと。共感性、包容力、判断力、審美眼を含む。決断力、忍耐力、回復力、切り替えの早さ、動揺しないこと。説明力、教養、仕事の遂行能力、待つ力、諦めない力、信じる力。ユーモア、相手に緊張感を強いずリラックスさせる能力、相手を緊張させる能力、威圧感も使えること。信念、人を追い詰めないこと。全力で遊べること、没入しすぎないこと。チャレンジ精神、持続力、集中力。洞察力。

ちょっといれるべきか考えたのは、覚悟と責任感。全然なくても困るが、少なくとも表に出すのはあまりいい感じがしない。威圧感とかもそうだけど、必要なときに出れば十分。責任感とかも、あまり「責任感が強い」感じの人は、一緒にいると疲れるし、余裕がない感じがする。そういうものを感じさせずにやるべきことがちゃんとできる人や、部下が何かしでかしてもぱっと責任が取れればいいわけで、普段から責任感の強さを感じさせる人とはまた違う気がする。覚悟、というのも、白刃を飲んだ、という感じの人は「大人」という印象とは異なる。あと書いてみて思ったのは、公平性とか公正性とかそういうこともあるなと思うけれども、そういう政治的な感覚というのはまあいろいろ微妙な感じもする。公平とは思わないけれども納得はさせるという人もあれば、公平な扱いかもしれないけど納得行かない扱いを受けた、みたいなことはわりと誰でも経験があるのではないかという気がする。

まあこう考えてみると、大人になるというのはすごく大変なことだ。自分の中でチェックしてみて満足の行くものがどれだけあるかというとお恥ずかしい次第だが、子供のころは大人ってそういうものだと無意識のうちに思っていた。昔の大人が本当にそれだけすごかったかというとまあ百点ではないだろうけど、今の大人に比べればだいぶ点数は高かっただろうと思う。

創造性は、その中でもけっこう大事なことだと思う。創造性があれば大人だ、というわけではないけれども、創造性が発揮されることで実現して行く徳目が、つまり創造性がなければ実現しないだろうと思われる徳目がけっこうある気がする。

昨日読了した西村佳哲『自分をいかして生きる』には、「自分」というのは、内なる「自分自身」とも接し、外なる「社会」とも接する境界にある存在だけれども、社会に適応していくだけでなく、内なる自分自身との付き合いも大切にしないといけないということを言っていた。そのことをキャメロンの『ずっとやりたかったことを、やりなさい。』では、内なる「自分自身の声」を聞くための工夫を徹底的にやっていて、外からそのことにたいして批判されるのをいかにシャットアウトするか、というところに相当力を注いでいる。『孤独な群集』の用語で言えば徹底的に内部志向性を追及し、他人志向性を根絶やしにするくらいの勢いがあって、その当たりのところがどうなんだろうと思うところもないわけではないのだけど、まあ言いたいことは分かる。

創造性が何のために必要なのか、ということも、一度全体的に考え直してみないといけないなあと思っていたので、まあこの思考はけっこう役に立った。別に偏屈な芸術家がいたっていいのだけど、偏屈でなければ芸術家ではない、というのもおかしいと思う。人間、円満になろうと思ったって完全に円満になることは無理だし、いつまでも解決されない何かを持ち続けるのも人間だろうと思う。ただ、全体的に人間がどこかに向かって進歩していくとするならば、「大人になる」というのはそう悪い方向性ではないと思う。

      
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   <title>成長と競争と分配</title>
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   <published>2010-03-06T03:48:17Z</published>
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      昨日。一日よく晴れていたが、今朝は朝から雨。今日は啓蟄。虫たちも起き上がってきているのだろうか。そういえば隣の家の池の錦鯉は、もうみんな顔をのぞかせて動いていた。冬眠状態からは抜け出しているらしい。鯉は虫じゃないけど。

昨日の夜は大分咳が出たが、寝られたことは寝られた。ただ、そんな深くは眠れなかったんだろうなと思う。ある程度すっきりはしているけど、かったるさは残っている。

仕事は大分暇だったので、早目に上がって早目に食事。愛子内親王殿下のニュースなど見る。学習院も学級崩壊しているのか？とか思う。まあ実態はよくわからないが、学習院のような学校の生徒でさえ皇室に対する自然な尊敬の念が衰えているのだとすれば、本当に皇室の藩屏というものはもう雲散霧消してしまっているということで、学習院が学習院である意味ももうあまりないということになる。悠仁親王殿下はお茶の水付属に進むということだし、学習院の存在意義自体が問われる段階になってきてはいるなあと思う。

それから中国のバブルの報道。確かに不動産の投機目的の購入が激しさを増していて、一般人が住宅を買えないような状況になっているそうだから、これは確かにバブル状態といっていいんだろう。リーマンショック後の中共当局の大々的な金融緩和策によって相当金余り現象が起きているようなので、これは遠からず崩壊するという見立ては正しいと思う。その時に世界経済に与える影響がどれほどになるかは想像すると大変だが、日本も何らかの対策を講じておかないと大変になりそうだ。

報道ステーションに出ていた浜とかいう女性の学者が、「成長、競争、分配」の三つの足で立たないと経済はうまくいかないが、今の中国は成長という一本の足だけで立っている危険な状態だと言っていて、なるほどと思うところがあった。

成長、競争、分配。それぞれ人間にとって重要な活動の性質だが、一人の人間においてもどの側面を重視するのかということで人間性というものが決まってくる面があるように思った。

それを自分の場合に当てはめてみると、自分の頭と心と体のそれぞれが、心は成長を求め、頭は競争を求めて、体は自然の恵みの分配を欲している、という感じなんだなと思う。昨日のブログに書いたことをもう少し考えてみると、その二つの考え方を組み合わせると面白いアイディアが出てくるように思う。西村佳哲がブログでモンゴルで馬に乗った話を引き合いに出し、人の体というのは馬みたいなもので、人が自分の都合で動かそうと思ってもいうことを聞かないことがある、ということを書いていたけど、ちょっと似ている。

体が欲していることは、頭が欲していることとはかなり違うようで、最近、カフェなどでも自然食品系統のところに行きたいという気持ちが自然に強い。デトックスというか、体から毒抜きをしたいという感じがある。自然食がとにかくおいしいという感じなのだけど、考えてみたらどんなものでも自然の恵みであることには違いないわけで、ものを食べる時には自然の恵みを分配してもらっているのだという気持ちで食べると体が満足するような気がした。今朝朝食を食べながら思ったこと。

心が成長を求めているというのは、やはり創造性を開いていく、というようなことと関わりがあるのだろう。創造性というものも、「心の成長」というところにポイントを置いて考えてみると、自分のやっていく方針が立つ部分があるような気がした。それは案外、父が求めていたものと近いところにあるという気もする。

頭は相変わらず競争社会の中にあって、まあ勝負勝負という感じになっているのだけど、それで大分疲れ果ててしまっているのでしばらく休んだ方がいいというのが現状なんだと思う。

      
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